もうひとつついでに沢田を紹介。 『KENJI SAWADA』である。 73年、「危険なふたり」で「日本歌謡大賞」大賞を受賞し、タイガースのジュリーから沢田研二へ、ソロイストとしての立場を確かにした沢田研二は翌年以降海外進出を目指すようになる。 74年1月、渡仏し、MIDEM(国際音楽見本市)に参加するのをを皮切りに、9月に渡欧、ロンドン・ポリドールにて12曲、フランス・ポリドールにて3曲レコーデイング。 明けて75年1月にはイギリスにてシングル「THE FUGITIVE」と同タイトルのアルバムを、フランスにてシングル「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」を発売、海外デビューを果たす。 と、ここまでであればその他の日本のポップス系歌手の海外進出と変わりがない。 ピンクレディー、松田聖子、本田美奈子、槇原敬之、久保田利伸、 NOKKO、ドリームズ・カム・トゥルー……。 国内で一定の成功を収めたポップス系歌手がその目を海外に向ける(――そして日本での活動が疎かになり日本での人気が落ちる)というのはある種のセオリ―ともいえる。 が、沢田研二はなんと成功してしまった。 フランスで「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」に火がつき(「THE FUGITIVE」のリリース以後の話は聞かない。だめだったのだろう。)、RTLというラジオチャートで最高第4位を獲得する。 このチャートの信頼性というものはわからないが、レコード会社発表でフランス国内のみで20万枚を売り上げたというのだから日本とフランスの人口比を鑑みれば充分な成績といえる。 ちなみにその曲は山上路夫の日本語詞をつけ、同年5月に「巴里にひとり」というタイトルで日本でもリリース。オリコンで最高5位、20.3万枚を売り上げる。 後年、この海外進出を沢田自身は「日本での宣伝のための活動だった」と、つまり箔づけのための活動であって、本気で世界進出を目指したわけではなかった、と述懐している。 が、このヒットに引きずられるようにフランスでのリリースが続く。 5月、「ATTENDS-MOI」リリース。10月、「FOU DE TOI」リリース。 そして76年1月にはフランスで初のアルバム『KENJI SAWADA』をリリースする。 ちなみに今作、同年4月に出た日本盤には「ジュリー・イン・パリ」という副題がついている。 ということで、このアルバムの話となる。 の、だ、が。 このアルバムかなりつくりが雑なんですよぉーーー。 ジャケットになぜか「Paris, Londres, Tokyo 」と入っているのだけれど、まぁ、つまりそれぞれ日本とイギリスとフランスで録った楽曲がごった煮でそのまんまはいっているという。 ロンドン録音のアルバム『THE FUGITIVE』から2曲とみなさんおなじみ「時の過ぎゆくままに」「追憶」「白い部屋」(別にフランス語盤でもなんでもない)、それにフランスでリリースした今までの楽曲と、フランス録音の新曲が2曲、という沢田研二のフランス進出の成りゆきぶりが非常わかりやすく表れた布陣となってしまっている。 と、全体でみれば「ごった煮だね」の一言なのだが、フランス録音楽曲がとても優れているのでこのことのみに焦点を合わせて書く。 と、書いたところで、わし、和製フレンチならまだしも、本場モノのフレンチポップスの素養ないんだわ。 ただねえ、とにかくいいのよ。これ。(と、突然口調がくだける) 「JULIANA」「FOU DE TOI」の大味な爽やかポップス具合とか、一転「ITUMI」「ATTENDS-MOI」のセンチメンタル少女趣味なメロウさとか、非常に日本人にとって分りやすいフレンチの世界がひろがっていると私ゃ思うわけですよ。 この作曲者のジョルジュ・コスタってのは相当の手のものでないかね。もしかして。 と調べてみると、彼、70、80年代に活躍したバックコーラスデュオの片割れらしい。 知ってのとおり、沢田研二の音楽史を見る時、「歌謡ロック」という大奔流の影に隠れながらも、「和製フレンチ」という伏流水がその実、流れているわけで。 「僕のマリー」から始まり、ソロデビュー曲「君をのせて」、大ヒット曲「追憶」、でもって一連のフランス盤。 その後はしばらく鳴りを潜めるものの、84年『ノンポリシー』の「眠れ巴里」「シルクの夜」あたりからまたでてき、「アマポーラ」、「灰とダイアモンド」と来て、アルバム『架空のオペラ』という大傑作が生まれる。 90年代に入っても音楽劇「ACT」でボリス・ビィアンやエディト・ピアフを取り上げているし、コシミハルが作詞した「SPLEEN」というシングルもある。 その流れでいうとこのアルバムは本拠地乗り込みであり、また70年代の『架空のオペラ』ともいえるわけである。 ただ、このフレンチの流れってのは沢田本人はあまりお気に召さないらしく、あまりこれらのレパートリーは今となっては披露される機会は少ない。 特にこのアルバムに関しては皆無といっていいかもしれない。 多分2枚の海外発売アルバムにしてもフレンチの『KENJI SAWADA』よりブリティッシュ・ロックで攻めた『THE FUGITIVE』の方が本懐に近いようにみうけられる。 実際「Candy」などはいまでもレパートリーに入っているし、音楽的には『THE FUGITIVE』の延長線上に『G.S I Love You』が生まれるといっていい。 ま、皮肉なことに本人の声質からいくとそういったロック路線よりもフレンチ路線の方がしっくりいってしまうというあたりがなんともですが。 ともあれ、この時期の沢田研二ってシングルはいいが、アルバムに関してはどうもピンとこなかいものが多い中で、商業ポップに一気に傾いた作品で是非とも聞いていただきたい逸品である。 (この時期の沢田のアルバムって事務所が深く制作に関して介入してなかったせいか、沢田本人とその相棒たちである井上バンドの面々の自由な遊びの場ってアルバムが多いのよ。 となると、あわられて来るのがあの地味ジュリー。 沢田研二全作曲の『僕は今幸せです』とか『チャコールグレイの肖像』など、これらは純情なロック少年、沢田研二の素朴過ぎる横顔が感じられるばかりで、――それはそれでいいんだけどね。 派手ジュリー好きの私としてはどうも食い足りないものが多いんですよね。) ちなみにヒットした「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」。日本語訳すると「恋人よ、私は世界の果てからやってきた」である。 ヨーロッパから見て東の果て、日本からやってきた美青年がこのタイトルの歌を歌うわけである。 つまり、フランス人の東洋趣味にわかりやすく迎合したところにこの曲のヒットが生まれたと類推するに難くない。 であるから、これで一発屋にならないはずがない。 というわけで以後フランスでのヒットはなかった。 しかし、78年までにシングル計7枚、アルバム2枚と結構な数をフランスでリリースすることになる。 最後にもひとつ、くだらないこと、ジャケット写真。いわゆる「沢田研二」でなく匿名的で、ゆえに西洋人なんだか東洋人なんだかわからん顔をしていて、面白い。 |
2003.11.13