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和泉宗章というある占い師のこと

(和泉宗章「天中殺入門」/1979.06/青春出版社)


細木数子という居酒屋のおばちゃんのような占い師が再びテレビに出るようになって久しい。ご立派なお説教を吐きつつもちょっとした一言や行動が妙に下品でそんな時「地金が見えてますぜ」とわたしは思わず呟いてしまうのだが、 そんな彼女の姿を見るにつけ、もう一人の占い師のことをわたしは思わず想起してしまう。

「天中殺入門」を著した和泉宗章という人を、である。
1978年、かれは当時の深夜番組「11P.M.」に彼は出演し、「天中殺の時期に巨人監督になった長嶋監督は日本一になれない」と発言したのをきっかけに「天中殺ブーム」なるものを巻き起こす。 彼の著書「天中殺入門」と「算命占星学入門」はあわせて350万部の大ベストセラーにまでなり、彼はメディアの寵児となった。
さらにその勢いに乗ってかどうか知らないが、彼は「80年2月までに長嶋監督は辞任する」とまで予言してしまう。 それが運のつきか、かれは予言を外し(――実際の長嶋監督の辞任は80年のリーグ終了後)、結果易者稼業を辞め、「占い批判派」の先鋒へと転向することになる。――――と、いうのが彼の履歴と思われがちだが、占い廃業に到る流れはちょっとばかり違う。彼は予言をはずしたことによるバッシングで表舞台を去ったわけではない。
では、なぜ彼は易者を辞めたのか。言うなれば、彼は勝手に辞めたのである。


それは当時まだ駆け出し作家であった中島梓のルポルタージュ「あずさのアドベンチャー'80」(文藝春秋)の第1章「あずさと淋しい占い師たち」に詳しい。
80年1月、和泉氏のところへ訪れた中島梓。彼のとうとうと語る算命学についての話をだらぁと聞き流しつつ、「なんでこの人のしゃべり方って恐ろしく理詰めで不幸そうなんだろう」とぼんやり思っているところ、彼はやおら話を急展開させる。


「そう、あの頃は、そう思っていました」
「と云いますと」
「私は、算命学を、否定します」
「え?」
これは問題発言である。すわ、と一堂身をのりだす。われながら、あさましい。
「しかし和泉さんは――」
「そうです。これまでは正しいことをしていると信じていたから、算命学をやってきました。信じてきたものを否定する、これがどんなに恥ずかしい、辛いことかわかりますか。しかしそうせねばいかんのです。私は天中殺は正しいと思う、今でもそれを信じています。正しいものを勉強してきたと思います。 長嶋のことは、その証明です。しかし――」
和泉さんが言うには和泉さんの「元師匠」であるその高尾氏に「おととしの8月です」台湾の道教についてきいた。 そのとき、高尾氏は「あれは手品まがいのことをやる宗教だ」と答えたのだそうである。「ところが、それが、3月から、算命学は道教の一部だと言い出したのです。老荘思想の一部だと―――そして道観を作ると言い出した。道観というのは道教のお寺です。これは矛盾ではないですか――これはテープに入っているんです。講演会で云ったのです。 こんな矛盾したことを云う師匠の学問を信じることができますか――自らの理論を自ら否定する師匠がいるんでは、これはただの金もうけじゃありませんか――他の占いがやることと同じです。私は失望しましたよ。天中殺ブームといわれている中で、私にとっては地獄の苦しみですよ。いま、私の鑑定料は三十分で二万円です。口をぬぐってこのままやっていけば話は簡単ですよ。しかし私は金もうけでやっているんじゃない。」


言葉の端々に彼の易学へ対する熱意や愛情と、それを金稼ぎの手段としなくてはならない易者稼業というものの本質的な業に彼が引き裂かれている様がよく見てとれる。 この後「天中殺ブーム」の不可思議さ、なぜ自分がわけもわからず世間の俎上に上がっていったのか、を彼は述懐、またこのようにも、続ける。
(天中殺にしても)所詮気にしても仕方ないんです。いいですか、易者には運命を変えたり人を救う力はありませんよ。 見てもらう人が救われたと思ったらカンちがいだし、救えるという易者は欺瞞です。

彼がいった「易者には運命を変えたり人を救う力はない」という言葉はこうも言い換えることができると思う。
「もし、運命というものがわかる学問があったとして、それを習得したとしても、人は運命を変えることはできない」

この言葉は感覚としてわかる。
なんだかわからない、誰が支配しているのかわからない、この世を動かしてしまう絶対的な力。「運命」と呼ぶそれに対して、人がなにかを抗じることなど、わたしたちが人であるかぎり出来るはずがない。
わたしたちはいくら運命を振りきろうとしても、からめ取られてしまう。釈迦の手のひらで遊ぶ孫悟空のように、わたしたちは運命の手のひらでもてあそばされているにすぎない。
よしんば、占い師の予言によって、ひとつの危機を急場しのぎのように逃れることができたとしても、運命は手を変え品を変え訪れ、やはりわたしたちを同じ結果に導くのであろう。と。

しかし、これはまた占いで飯を食っていく人にとっては最もいってはいけない言葉である、と思う。 だって占おうがそうでなかろうが結局なにも変わらないということは、占いを受けて、それに代価を支払うこと自体、ドブに金を捨てるようなものでなんの意味がない、ということなのだから。
あまりにも究極的過ぎる。元も子もない。


私は占いが一般人レベル程度には好きだ。
朝のニュースバラエティーの星座占いのランキングがいいと「今日は何かいい日かも」と一瞬思ったりするし、雑誌の占いコーナーもあれば軽く目に通す。 ネットの無料の姓名判断やら四柱推命やらをやったことももちろんある。
とはいえそれはほんの暇つぶしなわけで「今日のラッキーカラーは黒」といわれて本当に黒い服に着替えたりなんて事はまずない。 ましてや、占いで将来を決めかねない重要なことを決めるなんて、噴飯ものだ。自分の人生を自分でもてあそんでいるとしか思えない。
それはどこかで「占い」というものを心の底では信じていないからなのだろう。
「占い」はせいぜい今日や明日をちょっと楽しく過ごすための彩り程度のもので、つまりはあってもなくてもどうでもいいもので、それで自分が縛られるのなど本末転倒、と。そんな風に思っているからなのだろう。

「占い」は本質的に「遊び」であるという前提が占い師にもそれを受ける側にもあるからこそ成立している職業なんじゃないかなぁ、と思う。
「遊び」であるからこそ、受け手であるわたしたちは「こんなんでましたけど」の泉アツノの白蛇占いに類するオモシロ占いを許し、易者に対して「なんであなたは未来がわかるのに、こんなシケたところで辻占なんかしているの?」という言葉を飲みこんでいるのである。

しかし、世の中広いわけで「遊び」で済まなくなってしまう人もなかにはでてくる。 悪徳占い師にハマって彼らの薦めるパワーストーンやら墓石やら水晶やらなんやらを法外な値段で買いつづけてしまい、結果、幸福になりたくて占ってもらったはずなのに以前よりもっと不幸になってしまう人がいるように、易者の中にも和泉氏のようにあまりにも真剣になり過ぎて、結果、「占い」を愛しすぎて「占い」を捨てなければならなくなる。そういう人もいる、ということだろう。
彼はきっと学者や研究者タイプの占い師であったのだろう。学問のように易学を熱心に研究することはできても、占い稼業というものの本質的な水っぽさ、いかがわしさへの親和性が全くなかったのではないか。
そんな彼にブームはあまりにも酷だったのだろう。飛び交う札束と入れ代わり立ち代り現れる見知らぬいかがわしい人々に彼は消耗し、アイデンティテイーを失ってしまう。 そして彼は占い稼業を辞める。さらに当時自身が著した本の印税を受け取ることすら拒否したという話も聞いたことがあるが、これは未確認である。

しかし、マスコミはそんなひとりの占い師の煩悶など知ったことではない。すぐに彼の名を忘れ、ほどなく彼に代わる誰かが現れる。
細木数子が「天中殺」を発展させたかのような「大殺界・中殺界・小殺界」と、生年月日から人を六つの星人にわける「六星占術」でブームになるのは和泉氏が易者界を去ってわずか二年後、82年だったと記憶する。


ともあれ、この話にもとりたててオチはない。
細木数子が何度も予言をかまし、そのたびに外そうが臆することもなくテレビに出演して御託を述べているのを見るにつけ、 「あぁ、そういえば、勝手に予言して勝手にブームを作って、結果が出る前に勝手に引退した占い師がいたなぁ」と思い出す、というそれだけの話である。

ちなみに、和泉氏が亡くなられて以降―――つまり本人の意向とはまったく関係のないところで、「2代目・和泉宗章」という方が今占い界で活躍中だという。

―――まぁ、世の中ってのは、こんなものだろう……。



2005.03.10
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