今市子 「B級グルメ倶楽部」
やおいの袋小路の一形態 (2003.07.20/ムービック) |
もののついでにまたまたやおい。 今市子「B級グルメ倶楽部」。 短編集である。 今回は表題作に注目。 今市子先生―――これは、やばいんじゃないかなあ……。 良くできている、ものすごく良くできている。 だから、それゆえにこれは、やばい。 はい、ストーリー。 主人公はゲイの新人リーマン、吉野くん。 高校時代うっかり何も考えずに自らをゲイであるとカミングアウトし、なんとなく周囲からハブになってしまった経歴あり。 その高校時代の彼の一条の光が、部活の先輩、鬼塚。ハブになっている吉野をさりげなくフォローする鬼塚に憧れを持つが、卒業してそれきり。 今、考えたらアレって脈あったのかなぁ、と思いつつも終わったこと。 とその後は、大学のクラスメートとそんな雰囲気になりつつもいざベッドインの段階で『やっぱ男ダメだわ』と拒否されたり、世間一般の場所では出会いは不可能とネットで調べたハッテン場に赴き童貞――処女??を捨てるが、当の相手が後日「あんな冷凍まぐろ」と陰口叩いているのに傷つき、こういうところは向かない、と退散したり。 つーことで、恋愛ごとはまともなのなんて一つもなくって、とにかく今は仕事を覚えるのが精一杯で恋のことなんて考えられなくって、という23歳。 で、そんな吉野くんの会社に派遣で昔の先輩鬼塚がやってきて、という話。 なんだこのリアリティ――はっっ。 この吉野というキャラ造形、ものすごく居そ――――な感じ。 ゲイバーのママさんとかドラァグクイーンの方とか、いわゆるイロモノとしてでもなく、また、ハードゲイ的イメージの、ものすごいセックスしている方みたいな感じでもなく、もちろん風と木の詩的少女趣味お耽美でもなく、ふつ―の人がふつーに社会生活をしていて、ただゲイであるというだけ。 もちろん、その後の展開も「ありそうなこと」の連発。 お互いが相手の家族とか相手の将来を慮って妙に腰を引いてしまうところとか。 またいざ覚悟を決めて実家に帰って家族全員の前でカミングアウトしたところ「なにいまさら、とっくに知ってたけど」と一蹴されるところとか。 また、恋の当て馬役の田畑くんの「お前すぐ5年先10年先の話とかするだろ、そういうの重いんだよ。1年どころか、こんな二重生活、明日にもばれるかとおもうと不安でしょうがない人間にはそういうの、すごいきついんだよ」の台詞とか。 高校時代、うっかりカミングアウトした吉野に対して鬼塚の言葉「みんなはお前がゲイだから嫌なんじゃなくてお前と一緒に居ると落ちつかないんだよ。それはお前が日常生活にセックスを持ち出したからだよ。自分が対象に含まれるセックスの話題を持ち出されると人は自分が口説かれているように感じるんだよ」なんて。 なぁんか、ものすごくホンモノの人の説得力のあるお言葉に感じたんですけど。 ラストは鬼塚の実家に赴き、仲良くアルバムを見つつ盛り上がって一発決めた後、―――弟がうっかり部屋に入って「かぁさ――ん。兄ちゃんが部屋でエッチなことしてるよ――」と叫んだりしますが、親族と一緒にごはん食べたりとほのぼのしく終わります。 これがねえ、ゲイの男性作家が書いたものなら別段驚きもしないし、ふーーん、てなもんなんです。 あぁ、これって、ゲイの書いたゲイのためのよくできたラブコメだ。この作者、漫画界の槙原敬之になるな。 と、思って、それで終わりです。 だけど、今市子先生って女性でしょ?? なんで女性がこういったのを書くんでしょうか。 という、当たり前過ぎて今更考えるのもだるくなるようなことをふと、思ってしまったわけです。 前回、梶原にき「月と水の夜」の評で書いたように、「やおい」ってのはイコール「ホモの世界」の物語ではないと思うのですよ、私は。 「やおい」とは「愛と関係性の物語」であって「性差のない愛の物語」であって、一種「同性愛」と見られるモチーフも関係性の脱構築としての役割を十全に満たしているからゆえの借景であって本質は同性愛そのものではない。と。 いや、そうでない、という意見も、もちろんありますよ。 やおいで描かれている男性同性愛はいわゆる男性同性愛そのものである。 何故自分が関与しない男性同性愛を何故、女性である彼女らが享受するのか。 彼女らはFTMゲイだからである。 って論旨を言う方もいまさぁね。 でもさ、FTMゲイなんていう―――体は女性だけど脳は男性、性的志向は男性へ向かうという方の事らしい、そんな裏の裏は表だった、みたいな裏技を駆使するのは正直ちょっと無理があるような気が私はします。 ていうか、んなこといったら女性の結構な数がFTMゲイってことになるわけで……んなアホなといわざるを得ない。 という「ヤオラ―=FTMゲイ」説への批判はいいとして、だ。 ともあれ、こういった現実の男性同性愛の世界にやおいが擦り寄っていくという傾向はここ数年のやおい全体のトレンドにみえる。 この今市子の作品だけでなく、いわゆる風木的なひらひらブラウスで魔性の美少年の世界でない現実的なゲイの世界を目指す、というものが近頃のやおい作品には散見される。 というか、そういったリアリティーのスパイスがないものは今となって皆無といって間違いない。――とはいえ、今作のようにホンモノの世界もかくやというものは少ないですけどね。 これにはもちろん、ゲイリブの方向からの意見――いわくリアリテイーのない同性愛を描き、自分らの世界を一部の女性たちが蹂躙しているというような意見、というのを汲んで、というのもあろうが、実際はヤオラ―自身からの内発的なものであるといっていいだろう。 このやおいのゲイ世界との接近、リアル化の歴史を遡ると、多分中島梓の「小説道場」に行きつくように思える。 「小説道場」とは、やおい作家の源泉の一人である栗本薫=中島梓が「JUNE」で主催した投稿やおい小説の批評とアドバイスの場であり、その中から江森備、尾鮭あさみ、石原郁子、秋月こおといった作家を輩出するに到った「やおい」を語るに置いては避けては通れないひとつの大きな場であった。 ここで当初、中島梓は素人の作る安易でうそ臭い設定をよく叩いていた。 「クリスチーネ剛田」レベルの豪華かつ噴飯モノのキャラクター名を。あらゆる男を篭絡させる魔性の美少年だとか、わが子を愛さない淫乱な母だとか、双子だとかアルビノだとか不治の病だとか、派手派手しいがお約束の設定を。 そしてこれらを「リアリティーがない」に類する言葉で否定していた。 もちろんここで中島氏がいわんとしていたことはあくまで「小説内リアリティー」、つまり、虚構を成り立たせるための、読者を騙し、上手く虚構内にひきずりこむためのリアリティ―――嘘のためのホント、であって、自然主義的に小説はあくまで現実そのものであれ、といっていたわけではなかった。 が、論旨はなんとなくずれ、いつしか、「小説道場」には自分語り的小説が、またリアルゲイ世界を描いた小説が増えていった。 (――やおいの「自分語り」モノに関しては次の機会ね) これらの作品は、まぁ、悪くはなかった。 が、はたして、これがやおいの行く道であったのかとかいうと、そうとは私には映らなかった。 確かに作品としてひとまず成立してる作品が増え、全体のレベルのボトムアップへとつながるに到ったという事実は、ある。 が、そうやって作品の体裁だけ整ってしまったことで、一層「なんで彼女らは自らが主体とならない男性同性愛をモチーフにした虚構を熱心に生み出し、そして消費するのか」といった根本的な部分がより見えなくなっていたように映った。 ―――この文脈の果てに「ヤオラ―=FTMゲイ」説なんて奇説が出てくると私は思う。 振りかえれば、初期のおにやんまのやおいとか、恋人より愛犬との生活を選ぶやおいとかのほうがよっぽど、やおいとしては本質的だったと私は思う。 中島梓もそのズレを感じていたのか知らないが、「小説道場」も、回が進み、投稿者が次々デビューし、と盛り上がりを見せるのとうらはらに中島梓は客観的に、引いていったように私には見えた。 と、いうことで、つまりはこの「B級グルメ倶楽部」も、それと同種の危惧があると思うのである。 よくできている。これは確かだ。 だけど、なんであなた、こんなリアルなゲイの世界を描いているわけ??その理由は?? と、思わずにいられないのだ。 うまさに誤魔化されてしまいがちだが、この状態で安穏としているとこの作家はヤバイと思う。 この路線はある意味袋小路ではないか、と予言しておいて今回は終わる。 |
2003.11.18