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明菜よもやま話 その5 「ヒット・チャート」


明菜だけはガチ!!
と、2ちゃんっぽく、こんにちは。
今日はヤオもやらせもなんでもありまくりのヒット・チャートと中森明菜の話。

「ザ・ベストテンのランキングは私にとって『サラリーマンの給料日のようなもの』」
これは、93年の『ザ・ベストテン同窓会』での彼女のオフコメ。
結果があるから、頑張れる。その指標が彼女にとっての『ザ・ベストテン』でのランキングだったのだそうだ。

アイドル全盛時代の彼女ほどランキングを己れのデータとして大切に扱い、それを真摯に受け止め活動していた歌手ってのはいないんじゃないかなぁ、と私は思う。
他に思いつくのは「一等賞をとりたい」と言い続け、81年レコード大賞で「聖子ちゃんや俊ちゃんと一緒に(ゴールデン・アイドル賞に)並びたい」と臆面もなくいってのけたり、78年レコード大賞を逃して思わずずっこけたり、ランキング番組を拒否した郷ひろみに「それはよくない」真面目に忠告した沢田研二くらいのもの。

明菜はこんな発言もしている。
「リクエスト番組で「明菜ちゃんが第1位」とかの時も、自分が本当かなぁ、って調べたりしたの。雑誌見たり、有線聞いたりかして。 2位にはなりそうだけれど、1位はおかしいなって思う時に、1位になったりしたときはね。」

「ベストヒット別冊「JIMMY」vol.1 (91年8月発行)」より

と、当時の明菜は、自分で調べた末にスタッフに「何かしたんじゃないでしょうね」とチャート操作などの裏工作に動いてやいないだろうかと問い詰めたりしたのだそうだ。
自分で制作に参加している癖して、1位にはなりそうもないなぁ、等と冷静に判断して、1位になった事実に「嬉しい」ではなくスタッフが余計なことをしたのでは、と疑うというのが、いかにも明菜なのだが(―――スタッフは大変ですなぁ)、 そのように彼女が「ヒット歌手」として驚くほど清廉かつ真摯にチャート戦争に参戦していたというのは、実際データがそれを証明しているようにみえる。

中森明菜、もちろん歌手としての売上げ実績は80年代では松田聖子と並ぶ双璧なんだけれど、案外チャートで1位を逃している。
オリコンでは、「トワイライト」(43.0万枚)は薬師丸ひろ子「探偵物語」(84.1万枚)に、「北ウイング」(61.4万枚)はわらべの「もしも明日が」(97.0万枚)に、「I missed the "Shock"」(31.1万枚)は長淵剛「とんぼ」(103.5万枚)と浅香唯「Melody」(21.6万枚)に1位を阻まれている。
これらの3曲が決して彼女の当時のシングル売上げの中で特別低いというわけではもちろんない。初動売上からいったら1位でも全く問題ない。
ただ同時期の発売の作品があまりにも強かった。「探偵物語」「もしも明日が」「とんぼ」の3曲はどれも年間ベストテンにランクインする特大ヒット曲だった。

―――ちなみに「ザ・ベストテン」で1位を逃したシングルは「SAND BEIGE」(1位はチェッカーズ「俺達のロカビリーナイト」・サザンオールスターズ「Bye Bye My Love」)、「SOLITUDE」(1位は安全地帯「蒼い瞳のエリス」)「I missed the "Shock"」(1位は長淵剛「とんぼ」・少年隊「じれったいね」)「LIAR」(1位は田原俊彦「ごめんよ涙」)。

チャート誌を見ていただければわかると思うが、大抵1位取りのために、まず大物歌手や大型タイアップの曲の発売があると、他のシングルは発売日をずらすのが定石となっている。
でもって、意地でも1位、という勝負時にはそれプラス、様々な裏工作へと移るらしい。その手段のなかで一番えげつないのが、「自社買い」。自分で作って自分で買う。と。
え、自社買い??と思う人もいるかもしれないが、五万枚買うと計算して、単純計算で5000万円なわけだから、これくらいの宣伝広告費、勝負曲であればさほど多額とはいえない。
キャンペーンソングなどの、レコ社やプロダクション以外にも様々な企業が1枚噛んでいる楽曲であれば、それは実に安い値段といえるだろう。
実際、そういったグレーなヒット曲というのはチャート誌を見るとそこここに見うけられるし、そういった工作の末に1位記録を伸ばした(ている)歌手というのはいっぱいいる、といわれている。
(ま、これ以上は音楽業界の闇の部分なんで、わたしはよくわからんですわ)

に比べて当時の明菜のチャートアクションのデータを見るとそういった怪しげな部分というのが実に少ない。
実際、「デビュー日にシングル発売」にこだわった12インチシングル「赤い鳥逃げた」はオリコン集計日の関係で票が割れ、初登場12位→翌週1位なんてチャートランキング偏重の今ならありえない摩訶不思議なチャートアクションのものがあったりもする。
また、彼女のヒット曲の知名度と売上の推移ってほぼ完全イコールになっているようにも私には、見える。
これは印象論に過ぎないが、知名度の低いものは必然と売上げが低く、売上げの割に知名度が……という疑わしい曲がまったくないようにみえるのだ。
でもって86〜88年のレコードからCDへの移行期になると、業界全体が構造不況に陥ったのと歩みを同じくして、明菜のシングル売上もどんなてこ入れをしてもヒットが小粒に、と素直な推移していく。(「DESIRE」は「禁区」や「サザン・ウインド」よりも売上げが下というのだから驚き。もちろんこれで年間チャート第2位だから当時としては特大ヒットなわけなのである。)

「なんかやっているんじゃないでしょうね」とばかりにスタッフににらみをきかせ、発売日にどんなシングルがライバルに来ようとそこを正々堂々と突っ込み、また、あえて1位になりそうにもない曲を今後の布石とばかりにリリースしたりしたのが当時の明菜なわけである。
でもって、実際、彼女は自ら作品の売上推移に対して「TATTOO」(29.7万枚、年間チャート第13位)を『あの曲はもっと売れると思ったんだけれどなぁ』などといったように、実に屈託のない率直な発言をしていたのだった。

(彼女の当時のヒット曲には大手企業や広告代理店などが絡んだ一大プロモーションによるヒット曲―――80年代ならカネボウ・資生堂の化粧品のキャンペーンソングとか―――がないのは彼女のこの志向が関係しているような気がする……)


明菜のこの志向は、アイドル爛熟期に弱小プロダクション・弱小レコード会社からデビューしたという所が大きいのではと思う。

子供のくせに凄く冷静だった。 お金をかけているタレントさん、かけていないタレントさん、実力のあるタレントさん、そういうのがよくわかってたの。私がデビューした頃はどこの事務所もお金をかけていたの。
…(中略)…
私はプライドが凄く高かったから、「お金かけたけれどダメだったんだよね」って後で言われたくなかった。だから私「売れないかもしれないですから。やるだけはやりますけどお金はかけないでください」って(スタッフに)いったの。

「ベストヒット別冊「JIMMY」vol.1 (91年8月発行)」より


きっと、業界の構図に関して敏感にならざるを得ない状況に置かれていたのだろう。
(―――それにしても生意気な小娘だな。)
とはいえ、芸能界というなんでもありのやくざな世界で、無理くりの本気の勝負をたったひとりで彼女が臨んでいたということは、こうした理屈よりも、彼女の作品群―――楽曲にはじまり、ジャケットのアートデイレクションや一曲一曲の衣装やダンス、そして何より『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』等毎夜どこかであった歌番組での精気に満ち満ちた姿を見れば充分理解できる。
歌番組での彼女の眼はいつも勝負に賭ける眼をしていた。
こうした彼女のファイティンクグスタイルが、幼い私の眼にはとてもカッコよく映ったのであった。



ともあれ、これも、今は昔の話である。
あの頃と今は、あらゆる意味で違う。
しかし、中森明菜という歌手が今でも歌いつづけているということには変わりはない。
彼女が、あの頃のような形で闘うことはないのだろうが、彼女は、歌い続ける限り闘わなければならない、そんな宿命のような気が私はする
そしてそれはヒット・チャートという眼に見えるものとの闘いではないだろう。

彼女の賞レースの話もしようと思ったが、思ったよりも長文になったのでこれは次の機会に。


2004.03.13


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