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萩尾望都の描く天然系美少年

〜自己と他者に苦しむ彼ら〜

(「海のアリア」/1989〜91年 月刊「ASUKA」連載/角川書店・小学館文庫)


「海のアリア」で人間界のカスタムがよくわからないアベルが「ヒトのイヤガルことって なんだろう」と、ドキドキするところに激萌えるまこりんです。

萩尾望都の描く無邪気がヒトの皮を被って生きているような天然系美少年ってのは、彼女の作品にはなくてならないキャラクターだけれども、この子たちに一定のリアリティーがあるのは、 これらのキャラクターが、わざと無邪気を装っているわけでなく、人とぶつかる自分にうんざりし、ヒトとあわせよう人に迷惑かけまいと本人なりに一生懸命頭をぐるぐるさせていたりするところをいつもきちんと描いているところにあると思う。
アベルだってその科白の数ページ後には「どうすればいいんだ メイワクかけないように まいにち考えているのに !」って逆ギレしているしね。
とはいえ、それらの努力がピンぼけであることがいつもで、結局溝はなかなか埋まらないんだけれども。

こうしたキャラ造型ってのは萩尾望都自身のコンプレックスによっているんじゃないかなぁ、と私は思っている。
彼女は自著「思い出を切りぬく時」(あんず堂)でこのように語っている。


私は対人関係の距離をうまくとることが出来ません。幼い時からそうで、まず人見知りというものをしませんでした。 人見知りとは自分と他人を区別する能力で、親しい人になつき、見知らぬ人を用心するわけですが、その能力がうまく発達しなかったわけです。
無用心に他者になついては"変な子"と拒否され、傷つく。それで私はだんだん、どうも"他者"は"私"ではないらしいと気づき、"他者"とは何か考え始めるわけです。
他者には他者の都合がある。気持がある。こだわりが、価値観がある。そして相手を理解するほど、私は他者という人間から遠ざかっていきました。
遠ざかると孤独になるので、やはり近づく。近づくと、また無防備になって傷つく。それで用心深くなる。ここが距離のとれないところで、無防備と用心深さの両極端をいったりきたりするのです。ブランコのように。
(あとがき「私と他者」)

―――「海のアリア」でいえば、いきなりふところに飛び込んでくる歩く地雷、アベルは無防備の面、「友人」というものを今までひとりも作ったことのないアリアドは用心深さの面、をそれぞれ担当しているっていうことになるのかな。ちょうど自己の振子の両端に主人公格の人物を置いて、その二人の振幅で物語の主軸がすすむ、というのは萩尾望都の作品には実に多い。

萩尾望都がきちんと「作家」であるのは、こうした自分の他人との距離の取れなさを単純に欲望充足するような安易な漫画は描かずに(――そういう漫画ってよくあるでしょ。登場人物全てが主人公のお膳立てをしてくれる漫画)、きちんと自分の問題をクリアに客観的に見つめ、作品に昇華しているところにあると思う。
だからこそ、わたしたち読み手はアベルの苦悩を理解できるし、そんな苦悩をカワイイと愛でることができるし、挙句の果てのドタバタを暖かく笑うことができるし、作品に愛着を持つことができるんだと思う。

だって、対人関係というものはヒトがヒトとして社会で生きていく以上、必ず背負わなければならないものだし、 そして、誰しもが「どうして自分は他人とはうまく付き合えないのだ」や「他人の考えていることがどうして自分はよくわからないのだ」に類する不安を多少なりとも抱えて生きているのだから。―――っていう落とし方はちょっと平凡すぎるかな。


おまけ。

萩尾望都は自分の他者との距離を埋めようと必死になった末、他者と共存しうる客観的な世界――大人の世界といってもいいかもしれない、まで至ったけれども、 一方大島弓子も、同じく他者との距離を埋めようとするものの、中途で疲れ果て、最終的には、他者のいない世界―――他者すらも自分である、究極的な主観の世界、子供の世界――に引き篭もってしまった印象を受ける。
「いちご物語」など初期の「これでもか」といわんばかりの主人公の少女の自己開示や説明過多は「綿の国星」以降、鳴りをひそめ、彼女はナチュラルに狂った少女の世界に安住しているように私には見える。もちろん、それは容易い安住などではなく、逆ギレにも近い過激な退行なんだけれども。
この萩尾望都の成長と、大島弓子の過激な退化というのは、一種パラレルに起こったことで、現在の少女漫画のいきつくところの両極と私は勝手に解釈している。



2005.04.07
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