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萩尾望都のドライブする画面構成について


萩尾望都の漫画を読んでいて「すごいなぁ」とおもうのは画面がドライブするところにあると思う。
動くんだよね。ものすごく。あくまで二次元の紙なのに、絵に立体的な広がりを感じるし、時間の広がりも感じる。画面が生きて踊っている。 まんが道で藤子不二雄が手塚治虫の漫画を読んで「漫画なのに映画みたいに動いている」って驚く有名なシーンがあるけれども、アレに近い感じ。

例えば、2つのコマがあるとするでしょ。――会話するふたりの人物のお互いのバストアップのショットのコマなんかだったりしてさ。で、その2つのコマとコマの繋がりが、例えば映画だとしたらここはカットイン・アウトなのか、あるいはカメラをパンしてなのか、というそれくらいまでわかっちゃう。
もちろんそれぞれのコマのあいだが、これは時間経過か、あるいは場面転換か、あるいは、動きのあるシーンをざくっと省略してなのか、それともただカメラのスイッチングが切り替わっただけか、というのはもう一目瞭然。コマとコマの行間を読ませる力というのがすごい。

さらにいうと、ひとつのコマがこれは映画にすると何秒ここを映すのか、とかそういうところまでわかっちゃう。わかっちゃうというか、自然とそういうふうに読まされてしまう。
ぎゅっとネームとコマがつまっているページでもここは畳みかけるように数秒でかけぬけるところ、とか、あるいは見開きでネームなしの大ゴマでもじっくり見せるところ、とか、作者の手綱のままに読まされちゃうんだよね。
でもって、あとでじっくり確認するように読み返すとそういうふうに読者を読ませるよう作者が色々と趣向を凝らせあるのがよくわかって驚いてしまう。――しかも全体を一枚の絵として見た時にも萩尾望都は美しいんだよね。 作者自身もネームの配置、コマ割などを自分なりに研究しているんだろうな、というのがホントよくわかる。

――そういえば、森川久美のある漫画のシーンを「なんでこのページを読むとこんなにも目がぐるぐるして眩暈を感じるのだろうと何度も読み返したことがある」と彼女が対談でいっていたのをわたしは覚えている。 やっぱり、これは日々の努力の賜物なんだろうな。

漫画という表現にある快楽、というのがあるとしたらまさしくこれなんじゃないかなぁ、とわたしは思う。
時間が空間が紙の上で伸縮自在にデフォルメされて、ひとつの生を得てしまう、という快感。 ただの文字表現でもあるいは映像表現でもこの快感は味わえない。
それは手塚以来の「まんが」のひとつの特色といえるのかもしれないけれども(―――石森章太郎なんてそういったコマ割の実験とかいっぱいしていたしね)、これを1番洗練させたのはやっぱり萩尾望都なんじゃないかなぁ (―――ちなみにそのドライブ感をギャグとしてもっとも洗練させたのは吾妻ひでおだとわたし思う。彼はコマとコマの行間で読者を異化させる。えっ、こう繋がるの?というその反則ギリギリのスリルが彼のまんがの核にはある)。
萩尾望都ほど、画面が生き生きと踊っている漫画というのは、やっぱりちょっとないんじゃないかなあ。


これは萩尾望都の舞台演劇好きと映画好きがそうとう大きなところにあるのではとわたしは睨んでいる。
彼女のまんが作品はどれもひとつの生の舞台を様々なカメラから同時撮影しているような印象をわたしはうける。
同時進行の芝居のなかから、ここは彼女の顔、ここは舞台全体、ここはこの人物ふたり、ここは足だけ、ここは後ろのヒマそうな脇役、と次々とカメラを自由にスイッチングさせているという感じ。

ほら舞台って、映画やテレビと違って、製作者の意図と関係なく、自由に観客があっちこっちに視線を走らせるじゃない。全然今の場面にさほど関係のない脇役のしぐさとか、衣服の動きとか、舞台装置とか。 そういったあっちこっちに飛ぶ視線を収斂してひとつに纏め上げて、観客と演者がまるごと共犯関係のようになってしまうのが舞台の快楽なわけだけれども、そのへんの醍醐味を彼女は知っていて、自身の漫画に活用しているじゃないかなぁ、とわたしは思っている。
つまり、萩尾望都のドライブする画面は「舞台」にある。と。


2005.04.28
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