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銀色夏生 Presents 「Balance」

アイドルポップスの行きつく果て

(1989.12.01/CBSソニー/CSCL-1068)

1.瞬間の片想い 2.それは渚でプラトニックで 3.僕たちの恋 4.涙の理由 5.サーチライト 6.バランス 7.アマリリス 8.ラララ 9.かなしいことり 10.Jimmy Boy


「アイドルとは青春の切り売りである」という至言はかく言う「まこりん名言集vol.1」の冒頭に載っている名言中の名言であるが、今回はその言葉にもうひとつ付け加えたい。 「アイドルは「平凡な」青春の切り売りである」と。 アイドルとして『選ばれてしまった者』の青春ではない。ただ、そこにいる、普通の青春。どこにでもある青春。

――と、わけのわからんことを今日ものたまわっている、そんなまこりんです。 今日のテーマは銀色夏生プレゼンツ「Balance」。
よく「アイドルの歌が好き」なんていいますと、モー娘。がとか、上戸彩が、とか色々ネタを振ってくれますけど、別にそういうの、嫌いじゃないけど、そういうのを愛でる人とわたしの立ち位置は 微妙になんっっっか違うのよねーーー、とわたしは常々ひそかに思ってしまう。 アイドルとは、アイドルポップスとは、という視点的にそういう人とはちょっと違うなーー、と。
こういう話をしていて驚くのは「あ、みんな、アイドルをきちんと原則通り『心の恋人』としてみているんだなーーー」ということなんですが、 って、今回も勝手に違いがわかる男、まこりんなのだが、どうも、私はこういう視線でアイドルとアイドルソングを見ていないのよ。

私は、平たくいえば「女の子が歌っている歌」が好きなのかなぁ。 だから可愛い子が歌っているから好き、というわけではなく――もちろん可愛い子が歌っているに越したことはないが、むしろビジュアル的にどうだろうと、楽曲やそこにある声が可愛ければ全く問題なくって ――可愛いといったら、語弊があるな、楽曲とそれに伴った声から「少女としてのリアリティー」が感じられる作品が好きなのよ。逆にいえばいくら可愛かろうが、そこにリアリティーがなければ「あ、ニセモノ」と思ってしまう。
そうした楽曲がアイドルポップスであり、そうした楽曲を常に歌いこなせる歌手がアイドルである、と思っているっぽいです。もちろんこれはかなり狭義の意味(―――というかごく個人的な意味での)での「アイドル」なんだけれどもね。
だから、おにゃん子以降のアイドルというのはその本質において、大抵私は好きになれない。 いや、楽しむことはできますよ。できますけど、「アイドル」として、本気に入れこめないのよ。 誤解がまだありそうなので言っときますけど、個人的には安室奈美恵以降のプロデューサー主導型の少女歌手は正確にはアイドルではないと私はこれまた勝手に思ってます。

つまりさあ、企画とか、コンセプトが先に立ってそこにはめこむように当のアイドル、楽曲が成り立つというアイドルの組み方は私的にはダメなんですよ。
そこに一人の少女がいる、そして、その少女が歌うにふさわしい楽曲がある。その少女がその楽曲歌う。 そこから全てがはじまる、というのが真のアイドルポップスであって、アイドルではありませんかといいたいのよ。

でもって、楽曲も凡庸な少女の日常をリリカルに表現したものこそが素晴らしくはありませんか、と。 ――って、あーーー、なんか、この話はグネグネ入れこみそうだなーーー。 ちょっと、ヤメ。

もっと雑に言えば斉藤由貴「卒業」と、南野陽子「話しかけたかった」こそが、アイドルポップスの真骨頂であり、こう言うアイドルポップスが決して成り立たないアイドルなんてアイドルじゃないでしょ???
といいたいのだが、あーーーまとまらん。



強引に話を銀色夏生プレゼンツ「Balance」に戻すけど、このアルバムそういった意味では私の思うアイドルポップスの極北なのではと思うんですね。
このアルバムは、銀色夏生が何年かかかって書き溜めた自作の楽曲をアルバムにしようということで、ボーカルを募集。何通かの応募の中で、銀色夏生が一番作品にあった声と思った少女を選んで録音したというアルバムなんですが、 この歌を歌った少女はパーソネルに「vocal:Nanase Ito」と書かれているきりで、 ジャケットも銀色が撮った写真を使っていて、歌声しか少女の手がかりらしいものはないんだけれども、 しっかし、もう、この歌声だけで成立しているような、そんなアルバムなんですよ。
はっきりいって彼女の声は上手い下手でいえば下手だけど、この作品を歌うのなら彼女しか考えられない。 彼女の声は切なく、甘く、どこかなつかしくって、もうね、これらの歌はあらかじめ彼女に歌われるために誕生した歌なのでは、という。そうとしか思えない、そんな完璧な世界なのですよ。 とはいえ、彼女がどこか明確な特徴のある声かというとそうでもなく、結構ただの少女の声で、 あくまで、ワン・オブ・ゼムの少女の声なのよね。
歌手は、経験にもよるけど、その自意識ゆえに声に自分の顔が出てくるものだけれど、この声にはそんな顔がまったく、ないのよ。 美しいけど、あくまでワン・オブ・ゼムな佇まい。 しかし、その声が銀色の楽曲になんとあうことかッッ。 銀色夏生の繊細な詞の世界を見事なまでに再成しているのですね。 ちなみに全編曲は長谷川智樹。



もちろん銀色夏生の詞もいいのよ。
例えば、「それは渚でプラトニックで」。
恋人がいるのに、お互いを男女として意識してしまったふたり、別れのシーンで。
これが最後ならば 何もかも覚えていたくて
ふと流れ出した歌の歌詞に 耳をすました

(作詞・曲/銀色夏生)

うまいなぁ。
一番好きなのは表題作の「バランス」。全部抜き書きしたいくらい。
四角関係の歌。
バックシートを後ろに倒せば
リアウィンドウはプラネタリウム
前の二人に気づかれぬよう
話の途中 口づけをした

…(略)…

木枯らしの吹く 夕日のバス停で
あなたにもらった落書きを落とした
あわてて探してやっと拾って
思いの深さに悲しくなった

彼女にあなたを好きだと打ち明けられた時
本当の気持ちを言えなくて 聞き役になった
彼が私と付き合いたいと上手に誘うけど 
4人の距離は微妙なままに壊せないバランス

…(略)…

笑顔の中で視線を盗む
ただそれだけで胸をこがした
二人の恋は口に出せない
彼と彼女がきっと泣くから

一緒のとこをもし見られても
偶然あったときっと言うのね

(作詞・曲/銀色夏生)

最後の「一緒のとこをもし見られても/偶然あったときっと言うのね」なんて、上手すぎです。
実のところドロドロの恋愛劇を一見リリカルっぽく欺く、このへんの魔術ってのは松本隆、松任谷由実、谷山浩子クラスであって、もし、銀色夏生が歌謡曲の作詞に対して早晩に見切りをつけずに活動していたなら確実に80年代後半から90年代前半には歌謡界のハンドルを握っていただろうなあーーー。 そう思わずにいられないほどの精華集となっています。 アイドルポップスとして、その作品のレベルは斉藤由貴・南野陽子・松田聖子クラス。 ほんとに見事というほか、ない。

あ、そうそう、斉藤由貴に提供した「AXIA-悲しいことり-」と小泉今日子に提供した「サーチライト」も収録しております。 個人的には「悲しいことり」は斉藤由貴に軍配が上がるけど、「サーチライト」はこちらのほうが上に聞こえる。 声のピュア感が小泉に勝っている。小泉は「少女でありたい」と言う立場で歌っているが、こちらはそのまんま「少女」。




(と、唐突にここで文体が変わる。 アイドルの極北としてのこの作品について……。)

それにしても、思わずにはいられないのは、このボーカルの少女の行方。 この声の主、Nanase Ito嬢はどこへいったのだろうか。 きっと芸能活動はこのアルバムでの活動きり、このアルバムは彼女にとっては「夏休みの思い出」のようなもので、普通の少女の日常の世界に戻ったのではなかろうか。 そして今は少し年老いて、どこかの誰かと平凡な出会いをして、平凡に家庭を持ち、もしかしたら子供もいるのかもしれない。 恐らく、ありふれた日常を生きているのだろう。

それで、いい。それでいいと私は思う。アイドルの悲惨な末路はここにはない。 むしろ、これこそ一番美しい少女の青春なのでは、と私は思ってしまう。

アイドルは「誰しもが共感しうる『平凡な』青春の切り売り」だとわたしは思う。 しかし、アイドルであるがゆえにその「平凡さ」はデビューを機会に加速度的に失われてゆくわけで、 そして、それゆえに彼/彼女らはアイドルから「実力派」へ向かう戦いを始めることを余儀なくされるようになる。 「可愛い」「若い」でなく、芸能者としての実力を兼ね備えるということ。
しかし、私達ファンなどの「受け手」はアイドルである彼/彼女たちが実力派の男/女優、あるいは実力派の歌手・アーティストへの成長を一方では望みながら、たえずその一方ではそれを拒みたい思っている、という矛盾した心性を常に持ちつつ、愛でている。 そのことを、彼/彼女らアイドルたちが無意識にフィードバックし、内面化してしまうのだろうか、 アイドルは「実力派」への闘いの中でそのことごとくが、自己のアイドル性と自己実現の狭間で自分を見失い、クラッシュしてゆく。 (このへんの文章下手だなーーー、上手くいえない)

正味な話、アイドルに残される成功の道は山口百恵のような「引退し、家庭に入る」か、松田聖子や小泉今日子のように「未成熟であることを戦略的に取りこみ、あらかじめ実力派への闘いを放棄し、常に未成熟のなかで浮遊することを標榜する」か、中森明菜のように「血みどろになりながら芸能者として生きる」かしか、ないとわたしは思う。
アイドルという甘い夢には絶えず苦い目覚めの朝が付き纏うものなのだ、と。
しかし、このアルバムにはそんな「アイドルのその後」の物語は何もない。 可愛らしい歌を歌ったほとんどの少女達が辿った道をNanase Ito嬢は歩むことがなかったろう。 自分の芸のなさに焦れることも、ライバル達の出世にあせることも、プロダクションの不義理にいらだつことも、バラエティーでの必死の姿も、ヘアヌード写真集も、……。

ただ普通の少女がただ、その少女に似つかわしい歌を、歌う。 その歌は甘く、美しく、懐かしい。 そして、少女はただそれだけで、なんも春秋もなく、私たちの前から消えてゆく。 これはアイドルとアイドルポップスとして究極の形だと、私は思う。
だからこそ、美しいともいえるが……ここは袋小路である。極北でありそこから先は何もない。 ――実のところ、こうした「ただひたすらにアイドル」であることの難しさというものを、 「岡田有希子事件」や「おにゃんこブーム」あたりを契機に聴衆も気づいてしまったからこそ、銀色夏生は歌謡曲の詞を書かなくなったのではと私は思っている。

この作品が、1989年末という、松田聖子のオリコンでの連続1位記録が途絶え、中森明菜が自殺未遂釈明会見を開いた時期にリリースされたというのも象徴的である。 アイドル黄金時代の終幕のその瞬間にアイドルポップスとして最後のそして最も美しい結晶が生み出されたわけである。

(結局私にとっての「アイドル」ってなんなの、という自己を切開するような内容だけに力みまくっていまいちまとまりきれてないなーーー。すまん。となんとなく謝ってみる)

2003.02.10

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