―――「我」と「汝の汝」――― 萩尾望都ほど「自己」にこだわった作家はいないのではないだろうか、と思う。 フランス文学者森有礼氏の日本人の自我のありようを表した有名な言葉で「汝の汝」というのがある。 つまり日本人にとっての「私」というものはあくまで「あなた」から見た「あなた」でしかない。と。 日本人にとっての「わたし」は「誰がどういおうと私は私だ」という西洋的一人称的な「我」という自我構造ではなく、「あなた」というスペクトラムによって融通無碍な自我構造、「汝の汝」であり、いわゆる「二人称的なわたし」にすぎない。と。 それは相互依存的で非常に曖昧で空想的な脆弱な自我構造である。と。 日本人における他者との関係は西洋的ないわゆる「一人称―三人称的」な主体と客体が明確に区別された関係ではなく、二人称的な地下取引によってお互いを寄りかかりながら築きあげているにすぎない。 自己の広がりとしての他者、他者の広がりの一部としての自己しかそこにはなく、 ゆえにあらゆる他者と切り離されたとしても成り立つ「自己性」はそこにはない。 ひいてはあらゆるものをして断絶して屹立と存在する「他者性=客観性」の存在もない。 ゆえに社会契約や神や宗教といった点に大きく関る「理解不能の他者との共存」という概念自体生ぜしめない。 ―――「自己」をかかえる少女漫画――― わたしが24年組をはじめ、一部の少女漫画を熱烈に信奉するのは、それが徹底的に「自己」と「他者」の物語だからだ。 「自己」のなかにある確固たる自分、それが引き起こす周囲との軋轢や違和、ズレ。それが彼女らの創作の根本動機の一つとなっているように私には見える。 なんで他の人が当然と考えているようなことを私思いつくことすらできないのか。 他者はなんでこんなに不思議なものを見る目で私を見るのか。私ひとりがどうかしているだけなのか、それとも今までの周りがおかしいだけなのか。 こうした拘泥が、一部の少女漫画に強く見うけられる。 それでも彼女らは一人称的に自分の世界にこだわり、こだわることによってさらに周囲との違和を強くしていったように思える。 (――――そうしたなかには、特定の宗教にのめりこんだり、自家中毒を起こし創作活動を降りたり、といったものも多くいた) とはいえ、徹底的に自己を追いつめ、疎外の極地にいた彼女らの一部は、創作において大輪の華を咲かせた。 一人称的な世界に降りきることによって、自分のなかに「絶対的な他者」(―――「神の視点」や「客観性」といってもいいだろう)を作りだし、三人称的な世界へ、普遍的な極めて大きい作品を作り出すことに成功した。 その最高峰が彼女、萩尾望都ではなかろうか。 彼女の作品のほとんどが海外や架空の世界を舞台としているというのは、この自他の問題がスマートに提出できるがゆえ、というのも大きな理由のひとつのような気がわたしはする。 ―――「自己」というプリズムを通して乱反射する「現実」――― 萩尾望都は1つの物語を編むにもそれが誰の物語であるか、ということを非常に気を使っているように思える。 「現実」は1つであるが、ただそこにある「現実」というものはなにも意味をなさない。 「現実」を見る者がそれぞれの視点から見、意味付けすることよって、その「現実」がその人にとっての「現実」としてはじめて解釈される。 わたし達は「自己」というプリズムを通して反射した「現実」という光しか感知することが出来ないのだ。 ただの「現実」そのものをみることは不可能である。 萩尾望都という作家はそのことをよく知り、なによりも痛感しているのではなかろうか。 彼女は「自己」と「他者」を馴れ合いにしないように、1つの物語を編むにもその物語をキャラクター同士の馴れ合いの場とはさせない。 ある人物にとっての「現実」はこれであるが、違うほかの登場人物にとっての「現実」はこうであり、また違う登場人物にとっての「現実」はこう、 と、平行するパラレルワールドのように1つの事象にそれぞれのキャラクターにとっての様々な「現実」があることを暗に示唆し、その中からの1つとして丁寧に「ある人にとっての『現実』である物語」を抽出しているように見うけられる。 こうした「自己」と「他者」を峻別し、冷徹に物語を構築していく様は「訪問者」や「メッシュ」あたりを端緒に「残酷な神が支配する」で1つの大きな成果を生み出すのだが、 それらの作品群のなかで私が密かに愛している掌編が「船」である。 84年「プチフラワー」初出。 季節は秋。舞台はフランスだろうか、主人公は周囲との折り合いが悪くいつも家出ばかりしている少年である。 彼はいつもの家出の末辿りついたある海辺で、難破した船の木切れや調度を拾うある中年の男と出会う。 彼は船の残骸から模型の船を作るのを趣味にしているという。 少年は海辺の男の家に泊まることになる。 数多くの船の模型、犬のものと思われる鎖と首輪、自分より少しばかり小さい服、写真立てに飾られた美しい女性、 地下室の水槽、意味深な電話、「俺がイヤなのか、ニコル」の呟き……。 翌日、男は出来あがったばかりの模型を「進水式」といって海に流した。模型の船は波にまぎれてすぐに沈んでしまった。 男は淋しそうな眼をして「泣きながら沈めばいい」そういった。 少年はそして、自分の家に帰った。いつもの憂鬱で気詰まりばかりの日々、そんな時にふと彼はあの海辺の家を思い出した。彼はまだあの家で暮らしているのだろうか。 それからしばらく、冬を迎える頃。ふたたび彼の姿を見ることになる。新聞に踊った「少年大量殺人犯逮捕」の記事で、である。 少年の訪れた海岸で、船の模型を見せてやるといって誘い出し、地下室の水槽で何人もの少年を殺したシリアルキラー。少年はその記事を貪るように読んだ。 少年はあの海辺の家の細部と彼の淋しげな表情を想いだしては、なぜ自分は殺さなかったのか、とくりかえし考える。それは甘い妄想となって少年の心のなかに満たされていった。 季節は変わり、初夏。もう誰も訪ねることのない海辺の家、今はもう波に砕かれ朽ち果ててしまっているだろうか。 少年はあの日を確かめるために、またふたたび海辺の家へと訪れる。 しかし、男はまだそこに住んでいた。元気に飛び跳ねる小犬と、ニコルという名の少年と、写真立てに飾られてた女性と共に。 「去年まで別々に暮らしていたけれど今年からまた一緒に暮らせるんだ」とニコル。 ――――新聞の顔が似ていただけで、ただの勘違いだったんだ…… 朽ちて消え去る海辺の家、沈みゆく船は彼のだけの妄想であったが、しかし、そのイメージはいまだ夢のように心の深いところで波寄せているのであった。…… ―――「現実」という名の「夢」――― 彼女の視線は常に冷静だ。 「船」という作品は一人称的な世界(自分中心の利己的な世界観)が3人称的な世界(神の視点による俯瞰の世界観)とぶつかってくだける作品といっていいだろう。 自分の世界だけで丁寧に組上げてきたガラス細工が、最後に儚くなる。わずか24ページの作品であるが、見事に練られていて、それでいて美しくもせつない。 私たちは「自己」のくびきから解き放たれて「現実」をそのままの形で見ることは決して出来ないし、「他者」になりかわることも、「他者」と同じ世界を見ることもまた出来ない。 しかし、ならば「自己」の美しい夢を紡ぎだすことくらいは出来るであろう。 萩尾望都を読むと常にそう思わずにはいられない。 彼女の作品は全て、彼女の「現実」であり、「夢」である。 |