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中森明菜 「艶華」

「演歌」という虚構

(2007.06.27/ユニバーサル/UMCK-9181)

1.艶華T(Instrumental) 2.天城越え 3.無言坂 4.氷雨 5.みちづれ 6.越冬つばめ 7.艶華U(Instrumental) 8.悲しい酒 9.舟唄 10. 石狩挽歌 11. 矢切の渡し 12. 夜桜お七 13.艶華V(Instrumental)


 「演歌」は戦後の音楽である。
 これは、紛れもない事実だ。戦前に演歌はない。「演歌」という言葉は明治期からあったそうだが、それは私たちのイメージする「演歌」ではない。
 それを伝統芸能のごとき顔をして着物を纏って「演歌は日本の心です」などとのたまわう、あれは本当は嘘っぱちなのだ。
 戦前・戦中、東アジア圏に拡散していった日本人が敗戦を機に本土に還流した時に生まれた音楽――それが今私たちの言う「演歌」である。 一方、日本を占領しに遥か太平洋の彼方からやってきた進駐軍が運んできた音楽――それが「ポップス」である。
 いうなれば、「演歌」は大陸からの波であり、「ポップス」は大洋からの波である。
 大陸と大洋の境界線上にある弧状列島・日本の、戦後の歌謡曲は、だからこそ「ポップス」と「演歌」の相克で成立しているのである。

 それでは、なぜ、美空ひばりは「演歌」と「ポップス」垣根を越え、歌謡界の女王たりえたのか。 それは彼女が東京キッドだったからだ。
 「敗戦」という宿星が落ちた先に居たひとりの少女、それが美空ひばりである。彼女の歌霊は「敗戦」とともにある。 であるからこそ、彼女は終戦ともに歌い始め、戦後の終わりとともにこの世からさる運命にあったのだ。

 昭和が終わり、戦後が終わり、美空ひばりがこの世を去り、歌謡曲はJ-POPという言葉に名を変えた。 そして演歌というジャンルもまた、自己模倣の強く実体のともなわないフィクショナルなものと化してしまった。
 だから、中森明菜が「演歌」というジャンルに手を染めるという話にわたしはいい気分がしなかった。
 「演歌」ははっきりいえば、すでに死に体のジャンルだ。 しかも「歌姫」でトライした「歌謡曲」とは違って、完全に死にきってはいないゾンビのごときやっかいなジャンルなのだ。
 はたしてそれを明菜の手で再生することが可能なのか。
 その技量を彼女は持っているだろうか。
 しかしそれは杞憂に終わった。



 「ミ・アモーレ」をはじめ、「SAND BEIGE」「AL-MAUJ」「TANGO NOIR」など中森明菜が歌った数々の「異国」の世界。 しかし、そこにあるのは実態としての、欧羅巴やブラジル、サハラ、アラブでは、決してない。 それは現代の日本に住む私達が思う、ファンタジーの世界である。
 中森明菜は、エキゾチシズムの向こうに見る幻想を歌にしていたのだ。
 日本から見る異国ー――その視座を真逆にすると、西洋からみる東洋趣味の世界になる。 これもまた、中森明菜の世界だ。
 「DESIRE」「二人静」「月華」「落花流水」で表現されている世界は、はるか西洋から臨み見る、日本ならざるもうひとつの日本の世界だ。
 中森明菜の歌う「異国」は、その舞台がどこであろうと、そこは常にこの世ならざるもうひとつの異界であり、極めてフィクショナルな幻想空間なのである。

 日本のブルースとして愛されている演歌、しかしその演歌という概念はフィクショナルである。 だからこそ中森明菜はあえて、フィクションである「演歌」にさらにもうひと色、自身の持つファンタジーの色を重ねた。
 このアルバム、スタッフからの演歌のカバーはどうかという提案に、中森明菜は「西洋から見た『日本』というイメージで演歌を表現したらどうか」と提案したという。
 それは「DESIRE」「二人静」などで試された方法論とまったく同じである。
 結果生まれた「艶華」は、まぎれもなく中森明菜のアルバムであった。



 面白いのが「歌姫」との対比。
 同じ邦楽カバーのアルバムであり、千住明がサウンドプロデュースを手がけた「歌姫」と「艶華」であるが、 そのベクトルは、真逆に感じる。
 「歌姫」は楽曲に染みついた余計な色を剥ぎ、こびりついた物語を全て漂白してゼロに戻し、 楽曲の持つシンプルな良さを引き出す作業に終始していたように思える。
 明菜の歌唱も千住氏のペンも出来うる限りシンプルでオーソドックスなものであった。 それが既に時代の役割を終えて眠りについた歌謡曲を再生するに、もっとも有効な手段であったのだろう。
 一方「艶華」はどんどん色を重ねていく作業という印象が強い。
 「無言坂」「悲しい酒」「石狩挽歌」「夜桜お七」などアレンジ・歌唱ともに、斬新なアプローチを見せるものが実に目立つ。
 いまだ歌に息づいている世界を継承しながら、中森明菜の世界をさらに重ね、 まったく「演歌」的ではない、あらたな幻想空間を築きあげる――それが現在の死に体でありながらも、決して死んではいない「演歌」に対しての中森明菜のアプローチということなのだろう。

   「歌姫」のようなアルバムを期待して聞いた者にはこの「艶華」は、サウンドがごちゃごちゃして脚色が強い、ギトギトしたアルバムに聞こえるかもしれない。
 また「歌姫」の清澄で匿名性の強い世界を「中森明菜らしくない」と思って退けていた者には「艶華」は「明菜らしい世界観を持った今までとは違うカバーアルバム」と感じるだろう。
 演歌の大ファンは、きっと「こんなの演歌じゃない」と思うだろうし、演歌嫌いの若い層には「こういう演歌なら、楽しめるね」と思うだろう。
 「歌姫」とはまったく違った方向を持つカバーアルバムであり、 決して「演歌」ではない「演歌」のアルバム。それがこの「艶華」の世界だ。
 常に変化し、進化しつづける中森明菜。そんな彼女の手に入れた新たな歌の世界、それがこの「艶華」という一枚である。

2005.08.06
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