熱心なファンというのは、崇め立てられる当人にとって、もちろんありがたいものではあろうが、一面、迷惑なものでもある。 熱心さがそのまま狂信的なり、あつかましく他人に迷惑をかけたり、人を不快にしたりする。しかもそれが大抵善意からのものなのだから厄介なのだ。 とはいえそれはただのありがた迷惑だ。周囲だけでなく、当人にも迷惑をかけるのであればやめたほうがいいに越したことはない。 しかし、当人の口からは「うざい、勘弁して、おとなしくして」の類の言葉は死んでもいえないだろう。 こんな時、ファン商売って大変だよなあ、と思ったりする。 ――と、一体まこりん、なんの話しているの ? というとこれまた中森明菜の話なのである。 あまり他サイトに書き込んだりすることのない私だけれども、一応中森明菜のファンサイトを何ヶ所かお気に入りにいれていて、暇な時に巡回している。 と、まあ、そこには色々な言葉で彼女について語られており、もちろん面白く読まさせていただいているのがほとんどなのだが、なかには"どうもなぁ"と言うのももちろんありまして――。 ただの悪口であるとか、誹謗中傷など悪意があらかじめあるものは別に気にならないけれども、一番困るのが、熱心なファンなのであろうが、その熱心さが過ぎて、まるで明菜を自分の身内か何かのように語るもの。 明菜と自己との同一化が激しく進行し、まるで俺だけが明菜を一番知っているわかっているといわんばかりのいい方をする。 これだけなら可愛いものなのだが、こういった思いこみゆえに、彼女のやること成すことちょっとでも気にくわないものがあれば、いちいち難癖をつける。 そりゃそうだ明菜とあんたは他人なんだもの、自分の思い通りになるわけないわさ、その思い通りにいかない気持ちを明菜と明菜のファンにぶつけるのはお門違いもいいところだ。 まったくこまったもんだなぁ、と、そうした文章を読みつつ、モニターの前で乾いた笑いを零しているのがいつもの私なのだが、それらの熱心なファンがよくする言説でちょっとちゃんとカウンターとして言っとかないといけないかなぁ、と思うことが出てきたのでそのことを話す。 もちろん無駄な諍いを起こすつもりはないので、どこどこのこれこれにあった言葉、といった指示はしない。読んでいる人でそれぞれ、ああ、アレだ、と思ったり、なんの事いってるのかわからない、と思っていただければいい。 ――――というか、私自身も明菜に関する言説でこういうこと語られるのがそういえば多いなぁレベルのぼんやりした印象しかなく、つまりこれはそんなあやふやな言説の印象に対応する極めてぼんやりした論陣なのである。 ◆ なんの話かと言うと、「ファンの語る明菜の今のセールスに関する話」である。 つまり「売れない」「採算とれているのか」「レコード会社との契約が切られたら」といった話である。 どこかの本で読んできたのか知らないが、マーケティング理論やら業界構造を披瀝したりして、ういういと事情通ぶって語られるこれらの言説である。 「売れて欲しい」という単純な思いはファンとしては当然だと思う。 私もできれば売れないより売れたほうがいいと思う。 こういった曲が聞きたいという要望ってのもいいだろう。 が、それが行きつき、こんな曲じゃうれね――よ、とか、こんな宣伝じゃ売れね――よ、とか言い出したり、損益分岐点がどうちゃら、とか、 この時期にこの曲を出す戦略がどうちゃらとか、業界の傾向がどうたらとか、だから売れるためにこうしろとか、知ったようなことを言い出すと、私の顔色は曇っていく。 「売れるために」この曲がいいとかこの時期がいいとか、なにか、お前はユニバーサルの明菜のスタッフか。 ―――ちなみに損益分岐点という言葉が出たのでついでに記しておくが、87年の麻生香太郎著「ガキ主役産業の手帖」でシングル1枚、87年当時で損益分岐点は広告費抜きの実費のみで四万枚弱と計算している。 だが、これらはあくまで電卓上のみのものであって、スタジオ代、演奏代、アレンジ代など、いくらでも変動が利く、いわゆる変動費であるし、また音楽業界自体ドンブリ勘定で成り立っているところがあるので、全てのシングルの1枚の損益分岐がそこにあるわけでは全くないと、語っている。 つーか、だから1枚単位で採算取れているかどうかなんて、スタッフでない限り、知りようがないのだ。 だいたい明菜スタッフの人間でもないのに、こういうこと心配する必要はないだろうが。いくら思いが強いとはいえ、余計なお世話というものだ。 といういい方を私がしたら、こんな返しが来るかもしれない。 ――「明菜は商業音楽の中にいる」「歌手・明菜は商品なのだから」「売れない・採算が取れない=商品価値なしということでレコード会社の契約を切られ、明菜の歌う場がなくなってしまっては困る」―― (――というか、こういった言い方をして売上げに拘ることに自己肯定していた文章を見たんだけれどね) 確かに素直なファンならば、こう言われると、やばいかも、と思い、焦燥感に駆られるかもしれない。だが、こんなものすぐ論破できる。 だいたい業界構図だとか、マーケティングとか知ったようなことをいっておきながら言っておきながら、肝心なことがわかっていない。 まず、これらの発言は、日本のポップス歌手というのは30歳代以上が売上げ的に難しい、特に自作自演系でない歌手というのはほとんどマーケットとして不毛地帯である、という事実を全く考慮に入れていない。 今でも歌いつづけている非自作自演系ポップス歌手の先達たち―――沢田研二、布施明、郷ひろみ、西城秀樹、高橋真梨子、岩崎宏美、小柳ルミ子、松田聖子などの30代後半の頃の活動と今の明菜の活動を引き比べて見ても、今の明菜はよくやっている。充分過ぎるくらいだ。 演歌の女王である美空ひばりにしたって「真っ赤な太陽」の次作「むらさき色の夜明け」から87年の術後の復帰作「みだれ髪」までオリコンベストテンチャートイン作品も売上げ20万枚突破作品もひとつとしてない。彼女の30〜40代は売上げ的には暗黒期なのである――かの有名な後期の代表曲「愛燦燦」は最高69位、売上たったの2.3万枚である。 じゃあ、何故そんなまずもって売れないであろう、彼/彼女らを引き取っているレコード会社があるの??と、いうと、こういうことである。 商品には「売上商品」と「品質商品」と言うものがある。「商品」には会社の売上げに貢献することが主目的の「売上商品」と、会社のブランドロイヤリティーを高めることが主目的の「品質商品」の2つに大別されるのである。 これだけで、もう勘のいい方ならわかると思うがあえて簡単に例をあげれば、こういうことである。 CDショップで売上のメインはティーンから20代前半向けのいわゆる「J-pop」や一部の洋楽である。これはチャート紙の売上データを見れば一目瞭然である。 では、何故全くと言って売れないジャズやクラッシックやマイナーな洋楽や歌謡曲ナツメロなどにあんなに販売スペースを取っているのだろうか。 売れないのならば、そんなスペースを潰してもっと売れる「J-pop」の売り場面積を増やせばいいのに。 あなたがもし店員だとして、そんな進言を果たして責任者にするかい ? したところで鼻にもかけられないだろう。 だいたいもし、そんなヒットチャート上位しか置いてない店があったとして、あなたが客だとしたら、そんな流行りモノしか置いていない店を信頼するだろうか ? マイナーだが、専門的な、上質な、多様な音楽がある、それを信頼して客はそのショップに訪れるのである。 これはコンビニのような雑多な店でない普通の専門店であれば、どこだってそうだ。 売れるのはビールばかりの酒屋でも店のレジの奥の棚には高級酒が置いてあるものだし、オーディオショップだって売れないレコード針を今でも店の隅においているところはあるし、薬局でも年に2、3個しか売れない水枕をどこかにしまっているものだ。 これはショップなどの小売だけに限らない。 製作者サイドもそうだ。モノを作っている会社でも一定の規模であれば、一番売れる廉価商品しかつくらないところというのは少ない。というか、ない。 良心的な企業ならば、どこだって、自らの技術力、開発力の粋を集めたプレミアムな商品や、あるいは今までにない変わった商品を作っているものだ。 現在は、プレミアムであったり、あるいは異端な商品であっても、ユーザーから多大なる信を得ればそれが次世代のスタンダードになる。 モノ作りはこの繰り返しで進化しつづける。その果てに企業に対する信頼をユーザーは持つのである。(――――と、この流れで現在のソニーに対する批判をしても良いが、それはしない。) 音楽業界だって同じだ。 チャート効果の良い、売れ線音楽ばかり作っているイメージの強いエイベックスだってニューエイジ系の音楽やらURCレコードのリイシューやら演歌レーベルやらに手を染めていると言う事実をあまりにも知らなさ過ぎる。(――――ま、それが上手くいっているかどうかはしらないが) もちろん、あらゆる商品が「売上商品」か「品質商品」かの2つにはっきりとわかれるわけではない。ただ、商品には2つのベクトルがあるというだけだ。もちろん、「品質商品」は品質だけよければそれで全てが良いというわけではなかろうし、「売上商品」だからといって手を抜いて良いというわけではない。つまりは兼ね合いである。そしてその兼ね合いというのは目標、目的によって微妙に変化するものなのである。 今の「歌手、中森明菜」という商品に必要なのは、「売上商品」たろうとすることでない。―――ユニバーサルだって普通に市場調査していれば30代以上がマーケットとして難しいのは知っているはずだろうし、今更チャート上位へ組み込むための主戦力として彼女を引き取ったわけではなかろう。 彼女が今求められることは、ユニバーサルミュージックのブランドロイヤリティーとなる「品質商品」たること。これに尽きるとわたしは思う。 具体的には、歌に対する研鑚を重ねること、会社のイメージを損なうようなスキャンダルやトラブルを起こさないこと。まずはこの努力である。 この努力の恒常的に行い歌手としての品質をブラッシュアップしつづけ、時折は「売上商品」としての面でも貢献できればベストである、と私は思う。 良い作品を作り続けること、歌い続けること。大人の鑑賞眼に耐える歌唱である事。このおまけで、中森明菜って案外良いよね、と若い子が飛びついて売れたら万歳、って感じだと思いますが。 この努力を続けていけば、例え今所属しているユニバーサルとの契約が終わったとしても、絶対大丈夫だとわたしは思う。 ひどいいい方だと思うが、売れるためにといちいちマーケティング的な熱弁している人って、私のファンをしている中森明菜が脚光を浴びる→私の選択は間違ってなかった→自信満々、という感覚が欲しいだけなんじゃないの、とわたしは思う。 自己同一化が激しいというか、明菜が脚光を浴びるとあたかも自分が脚光を浴びたかのような気分になってんじゃないかなぁ。 明菜が世間から保証されるとまるで自分が保証されたよう、っていう。 でもそれってただのあんたの自己満足じゃん。 売れていようがなかろうが、いいものはいいといって静かに愛する―――身近な人に薦めたり、有線やラジオにリクエストしたりする、だけで十分じゃありませんか。 だいたいそんなに文句があるのなら、あなたが歌手となって「私が明菜よ」とばかりに歌うなり、あなたがレコード会社立ち上げて明菜を引き抜くなりすればいいじゃない。 自分ができないからといって、出来る人に自分の望むことを無理強いさせるのは、ただの手前勝手なエゴだ。 ◆ これは勿論中森明菜だけに関する話ではない。 商業芸術全てに言えることだと思う。 ヒットチャートやベストセラーリストが一人歩きしだしたここ20数年の傾向全てにいえると思う。 もともと業界内向けであったそういった情報が一人歩きし、"これが今のトレンド、これが売れている"という情報がさらにセールスを呼び込む、という状況。 そしてファンはみんな事情通ぶり、マーケティングの裏側を語りだし、いちいち関係者かのように口を挟もうとする。 私はこういった状況が大っ嫌いだ。 ヒットがヒットを呼び込む状況というのは、ただの情報化社会の末期的状況に過ぎない。 "なにかのための情報"が、いつしか"情報のための情報"となり、自閉し、過剰に暴走する。 そしてわたしたちは情報の渦に飲みこまれて、自己判断を放棄する。 もっとも、良い悪いの判断でなく売れているからひとまず飛びつこうというのはこれは単純に「ただ勝ち馬に乗りたい」という心理に過ぎないんじゃないかなぁ。 ヒットのつまらぬ分析などのファンの事情通化も、その勝ち馬心理と何一つ変わらないと感じる。 自分はこれだけ分析できている=これだけ今という時代を知り、その波にのりつづけている、というその保証を得たいだけなんじゃないの。 「ヒットにのる」ということは「資本主義社会の絶対的正義である『大量消費』に乗る」こと、 つまりは「自分がこの世界に乗りつづけている、サバイブしている、勝ちつづけている」という保証が与えられるということ。 ヒットが肥大化し、大衆総事情通化している理由っていうのは、そんなところなんじゃなんいかな、と私は思っている。 奔流となって溢れかえる情報の洪水に漂流する不安なわたしたちは、安心を得るために「今の情報で最も良いとされる価値」を探している。 もっとも心安らかなのは、誰かのための価値を探すのでなく、「自分にとっての価値」を探し、求めることなのにね。 「芸術」ははたして「資本主義社会」よりも上か下かということはとりたて触れない。 けれども、その時代の芸術の潮流がそのまま時代の鏡であるというのなら、今の商業芸術へのマスの飛びつきかたって退屈だよね、と思うし、芸術がその役割とは別にマスの自己保証の道具になってしまっているのは、その芸術とそれを作り出す人達にとって不幸な状況だな、と思うのだ。 多くの人々に支持される作品、人々――でもそれは自ら脚光を浴びることが出来なかった多くの自称ファンたちの嫉妬と代償行為によるものにすぎず、作品との相関関係はない、ということなのだから。 とにかく私がここでいいたいのは、売れるとか売れないとか悪戯に叫ぶのはもう辞めましょうよ、ということ。 もっと正道から作品と向き合い、作品から見えるところからのみ、その作者を語りましょうよ。 裏事情だとか横のつながりだとかのプライベートな出来事に終始する、作品の評価とは結びつかない、いわゆるどの世界にもある「業界の富の寄生者による噂話」レベルの言説は正直こりごりですわ。 あなたが業界人でそういったことが飯の種というのであれば別の話ですけれどね。 ……と、ここまで怒りに任せて年末年始あたりに、書き殴ったのだが、書いてすっきりしたのか、その後風邪でどろどろになっている間に書いたことすら忘れていた。 何故こんなにいきり立っていたのか、今となってはわからない。とはいえ、自分の書いたものだと思わなければ、それなりに面白いことも言っているような気がするのでアップすることにした。 またタイトルも時期はずれなのだが、敢えて全く変えないことにした。 読後気分を悪くした方がいたとしたら、ごめん。 |
2004.01.03
加筆・修正 2004.02.29