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メイン・インデックス歌謡曲の砦>公開トークショー 第9回 人気番組ライブラリー 「ザ・ベストテン」

公開トークショー 第9回 人気番組ライブラリー

ザ・ベストテン


(2012.03.24/横浜・情報文化センター)

ゲスト/生島ヒロシ(追っかけマン・司会)、山田修爾(制作)、遠藤環(演出) 司会/吉川美代子(TBSアナウンサー)


 横浜市の県庁近くにある、過去のテレビ番組が無料で閲覧できる施設、放送ライブラリー。そこで年一回のペースで、過去の人気テレビ番組がどのように作られたのかということを語り尽くす公開セミナー企画「人気番組メモリー」、その「ザ・ベストテン」の回に訪れてみた。

 午後一時、会場到着。会場ロビーには既に人が並んでいる、番組をリアルタイムでしっかり楽しんだ人が客層のメインかな、50代が一番目立つ。プリントアウトした当選応募メールを差し出し、DVD「ザ・ベストテン」のちらしをもらい(――未発売の中森明菜は間に合わなかったのか、カラーコピー)、中ほどに着席。場内の雰囲気は商業色はまったくなく、完全に学術系の講演。会場入り口前にDVD販売をするわけでもなく、程よくなごやかな空気。パラパラとちらしを眺めている間に、開演時間。
 まずは「放送人の会」の方からの挨拶。まずは企画の経緯から。きっかけは、十数年前におこったNHKドキュメンタリーのやらせ問題だったのだそうだ。視聴者からの様々な意見のなかには「ごもっとも」というものもあれば「放送界を誤解しているのでは?」と思われるものも多かったのだそうで。そこから、色々な意見を視聴者と直接やり取りできる場、こうやって番組を作っているんですよと知ってもらう場をつくろうという意図で生まれたのだとか。そんな軽い説明終わって、会場暗転。こっからが本題。

 モニターに「ザ・ベストテン」のオープニングが流れ、司会の吉川アナをはじめ、ゲストが登場。途中VTR出しに手間取り場がもっさりとしだすも「コレが生放送なら事故だね」と笑いながら、ゆるい空気感で始まる――とはいえ、さりげない場つなぎトークの上手さはさすが生に慣れているベッテンスタッフという印象。面子は司会の吉川美代子アナに、番組プロデューサー・山田修爾氏に、演出の遠藤環氏、追っかけマンと臨時司会を担当した生島ヒロシアナ。
 まずはじめは「吉川アナもベストテンの追っかけウーマンだった頃があるのですよ」というところから、山口百恵「しなやかに歌って」の映像。映画「天使を誘惑」撮影でにっかつ調布撮影所に居るところを若き吉川アナがレポート。「他のテレビ局・撮影所に行く時は特にプレッシャーでした」と吉川アナ。追っかけマンだった生島アナもそれに乗っかる。シブがき隊の日テレ生田スタジオ中継では、わざと事前アポをとってない風のドッキリ演出を生島アナにかましたことがあったという。生島アナ、中継終わった後、半泣きで中継車に戻ってきて「話通ってないじゃないですか、ひどいじゃないですか」と。演出の遠藤D曰く「生島が自分で場を仕切っている風で調子に乗っていたから、と」。悪いお人だ。

 「ザ・ベストテン」番組企画は77年春には考えていた。「中島みゆきの出られる番組にしたい」というのが大きなきっかけ。
 当時のテレビ界は、プロダクションとの結託によるタレント勢力図のようなものがあった(――森進一・沢田研二・布施明・五木ひろしが「男性四天王」なんて言われていた時代ですな)。歌番組も多くがそれに従ってキャスティングされていた。ランキングなんてテキトーにつけておけ、という風潮もあった。そうではない、ランキング主体、視聴者が本当にみたい歌手の今を見せる、というコンセプトではじめた。曰く「報道と歌番組の融合」。企画段階から社の内外で抵抗は強かった。通常のキャスティング方式の歌番組という案も、他の先輩社員の企画として上がっていたが、それに打ち勝っての放送決定だった。
 第一回放送も、野口五郎の第10位と山口百恵の第11位の順位の交換を周囲のスタッフから提案された。「番組第一回、最初にミラーゲートくぐるのが百恵ちゃんって絵になるじゃない」と。無論事前スケジュールも抑えていたのだが平身低頭して、山口百恵には辞退していただいた。――と、このあたりは山田Pの出した著書と被っているので大体で割愛。
 そんなベストテンのコンセプトが実ったのがそれまでどのテレビ番組にも出演しなかった松山千春の「季節の中で」出演。松山千春、台本破りの8分出演に山口百恵の出演が飛んだ、という伝説の回だが、この時、弟子丸P(――山田Pの師匠格。ベストテンの最初のプロデューサー)は松山千春のコンサートに毎回花を贈りつづけて、出演交渉のきっかけを掴んだ、とか、型破りな出演に沢田研二から「ズルい、僕もフルサイズで歌いたい」とクレームがあった、とか、へー、という裏側エピソードが披露された。ジュリーのクレームに対しては「たった一回だけの出演なのだからこれ位いいじゃないですか、あなたは来週もその次も週も出るのですから」と返したんだそうで。

 ちなみに放送第一回からリクエスト葉書は一万通以上届いたのだとか。一週間、最大で17万通、はがきのカウントは10名、土日を使ってやっていた。
 毎週火曜日にランキングが出て、その日の夜6時に企画会議が始まる、翌日水曜には美術班との打ち合わせでセットを発注し、それが放送されるのが、来週の木曜。本番直前のランスルー段階で全体の8割決まっていればいいほう、というのが一週間の流れ。
 火曜の企画会議は、黒柳徹子のおしゃべりをどこでおさめるかが長短の鍵だったとか。夜10時から久米・黒柳を交えての打ち合わせなのだが、まず「黒柳さんの一週間の生存報告」から始まるのだとか。これが長すぎると久米宏が「なんとかさせろよ」と周囲にアイコンタクトを送る、という。企画会議もなかなか決定打がないとなると、下手したら朝四時五時のコースもあった、と。
 さらに、秋元康は歌前やオフコメの「はがきえらび」からスタッフとして関わるようになった。当時から彼は冴えていた。なんでもない話を面白くする才能があった。ただ弟子丸Pとの相性が悪かった。視聴率は30%越えるとその週の担当ディレクターのデスクに花が届く、25%下回ると説教される。日テレの「トップテン」スタッフは毎週全員でベストテンを見て台本を作っていた。久米宏の司会勇退は当初84年12月の予定だったのをなんとか翌年4月まで延ばしてもらった。などなど、トリビアルな余談もたくさんでてきた。

 驚いたのが、予算オーバーでだいたい毎年一億円の赤字を計上させていて、社の看板番組ではあったが、トップからはいい顔をされなかったということ。
 特に経費がかかったのが、中継とセット。中継は、衛星回線が当時なかったので、例えば苗場の中継をすると、苗場に中継車を置くのはもちろん、その電波を直接東京に送ることが出来ないので、電波の届く山の上にまたもう一台、電波を受けて渡すだけの役割の中継車をださなくてはならなかった(――三点中継・四点中継と説明していた)、と。
 セットに関しては、最初はそんなにお金をかけるつもりはなかったけれども、四人で持ち回りで週ごとにディレクターを担当しているうちに競争心も湧き出て、だそうで。

 特に遠藤Dの演出は、後発で関わったということもあって気を衒った変化球的演出が多かった。と、いうことで、遠藤環演出のティピカルな例として、「ハイスクール・ララバイ」遊園地のビックリハウス演出の回のVTR。セットとカメラが一緒になってぐるぐる回転して、三人が逆さになったりしているように映る、という奴ね。
 フレッド・アステアがやっていたのを真似た。マイクコードは最初スタンドに絡めようと思ったが、美術スタッフの提案で、あえてコードをそのまま垂らせて、それをスタッフで引っぱってもらう形になった。スタッフ全員が番組を面白がって、色んな提案をしてくれた。面白ければその場で即採用。山口良一がシンセドラム叩く風の振り付けの途中でうっかりマイクに当ててしまう小ネタも、彼本人からのアイデアだったと。遠藤氏談。

 さらにもう一個のVTRは、松田聖子の「赤いスイトピー」。二十歳になったのでお酒でお祝いというトークが前フリ、セットは三メートルはある巨大シャンペンタワーという演出。
 トークと連動させてセットを作るという手段もよく用いた。これは典型的な物量作戦演出。とにかく数であっといわせる。一個250円のシャンペングラスを瞬間接着剤でくっつけた、無論使いきりで全部破棄。とにかくお金がかかった。「やったね!」と自信まんまんの出来だったが、弟子丸Pから、ダメ出しを受けた。
「なぜグラスをいくつ使ったか、久米のコメントでフォロー入れなかったのか。凄いと思ったあとに、これ全部でいくつあるんだろうと視聴者は思うはずだ。知りたいに答える、それがベストテン演出だ」と。うわー。なるほどなー。
 実のところ、表面だけのシャンパンタワーで裏はアクリルの段段の板になっていたそうで、意外とグラスの数的には思ったほど多くなく、天辺からこぼれ落ちるシャンパンも、本物のようでいて、実は水にアンバーの光をあててそれっぽく見せていただけ、という。
「だから言えなかったんだけどもね」

 とはいえ、「視聴者の知りたいに答えるベストテン演出」という勘所を学んだがゆえに次の「少女A」中継演出の話に繋がる。
 中森明菜、名古屋での仕事を終えてタクシーで静岡放送玄関前まで高速を飛ばして中継、という回。タクシーから降りたとたんに、オケが鳴り出して、問答無用で歌いださなければならない中森明菜。
 途中、当時の中森明菜のマネージャーが何度も見切れて、そのたび「柳沢(笑)」おまえ邪魔だよといわんばかりに笑う遠藤D。さらに「明菜のひと言ひと言にビビってる柳沢(笑)」。
「返しが聞こえなくて、明菜、イラッときてます(笑)」とまたまた笑う遠藤D。さらに「これ当時の明菜の本当の私服なんですよ」と。遠藤D、もしかして明菜派? 好きだからからかい気味にしゃべっている感じ。
 混乱をきたした映像、これには訳があって、先ほどの「知りたいことを伝えるベストテン演出」にならって、とにかくタクシーの料金メーターと車のナンバーの絵を映したかった。本当に名古屋から来た事、ここまでタクシー代金いくらかかったという情報を入れたかったのだ。そこで遠藤D、思わず「メーター映せ―」と怒鳴ったせいで、あらかじめ決めていたカメラ割がぐっちゃぐちゃになってしまったんだとか。
 ちなみに、中継に切り替わった途端タクシーが入ってきたのは、コレ、Qを出しして出てもらったわけではなくほんとに偶然だったとか。よく他の番組にパクられたけど、コレ偶然だったから、と。
 吉川アナからは、この回の追っかけアナのSBS上原さんに対して「コレ、ショックでしたでしょうね、きっと。言うこといろいろと考えてらしただろうに」と、アナウンサーらしいフォロー。
 地方局のアナウンサーにとって、たった数分の出演でも、全国区の看板番組に出られるということで、ベストテンの追っかけアナ抜擢はステータスだったのだとか。
「で、ベストテンの台本をケツポケットに入れてオネェちゃんナンパしたりするんだよな(笑)」と、遠藤氏。この人、フリーダムで面白い。

 ところで、遠藤氏と明菜とは気脈が通じ合っていたそうで、そのきっかけとなるエピソードがあったのだとか。
 中森明菜の軽井沢で中継の回(――おそらく「セカンドラブ」)に遠藤Dが現場に入っていたのだが、その時、明菜が不意に柳沢マネージャーに「横川の峠の釜飯が食べたい」。で、柳沢さんわざわざ買いにいったものの届いた釜飯に「やっぱり、いらなーい」――と、まあ、アイドルらしいわがままを見せたのだが、その一部始終を見ていた遠藤氏、思わずカチンと来て「そりゃ―違ぇだろ、明菜、食べたいと自分で言ったんだから食べろ」。
 ストレートな説教に明菜、しゅんとなって「はい。ごめんなさい」。以来、遠藤氏曰く「なんとなく、信頼関係みたいなものを生まれたかな」と。まっすぐなヒトには素直になるツンデレッ子な、きわめて明菜らしいエピソードかな。

 一方の山田Pは聖子派のようで、有名な「青い珊瑚礁」初登場の羽田空港演出も彼によるもの。山田Pは聖子ちゃんは本物のスターと、思ったらしい。
 とはいえ、聖子サイド的にはさほどベストテンを信頼していたようでもなく、83年「秘密の花園」での≪トシチャン&聖子、噂の二人終結宣言≫の企画は本人絶対やりたくない、と、スタッフはおろかトシちゃんすら説得に回ったものの固辞したらしい。  その時、山田Pはどうしたかというと、番組放送はじまったにもかかわらず、遠藤Dに頼むといってディレクター席を離れ、聖子ちゃんの楽屋で説得。
 ギリギリまで続く説得に観念した聖子ちゃん、怒りまじりのべらんめぇ口調で「やりゃあ、いいんでしょ。やりゃ」。その荒っぽい口調に山田P思わず「なんだその言葉遣いは!」。遠藤D「ま、九州の女ですから」とフォロー。
 しっかし。
 やると決めたら、絶対やる。あとで怒られても殴られてもいいから、やる。それが自分の思う面白さだし、視聴者の見たいものだと思うから。という、愚直なまでに信念の人だな、山田Pは。このエピソードひとつとっても、この人がいなければ番組はまわらなかったんだな、というのがしみじみわかる。
 83年の年間ベストテン、足を怪我したまま歌った明菜の「1/2の神話」も、事務所サイドのNGで歌の予定はなかったのだとか。
 それを山田Pが番組中、ソファに座る明菜のとなり、画面の見切れるギリギリの所に座って、ずっと説得し、ぎりぎりの所で明菜の「歌います」のひと言を取り付け、歌わせたのだとか。CM間の30秒だけ音合せして、歌ってもらった、と。
「だって、明菜ちゃんの歌っている所、みんな見たいだろうし」
 とはいえ、聖子ちゃんの場合これがいい方向には働かなかったようで「あれから、出演辞退、演出NGが多くなったような……」と首をかしげる山田P。

 さらに、過激な中継ということで82年年末の豪華版のトシ&マッチの「誘惑スレスレ」〜「ホレたぜ乾杯」のメドレー、表参道でオープンカーを走らせながらというびっくり中継。
 群がる追っかけ、無数に配備された警備員、マッチ中継機を片手に歌唱に「今じゃありえない」と。途中でクルマとめてクレープを買うという無茶も、しかも生島アナがしっかり領収書きってるシーンまで。このやりたい放題のバタバタがまさにベストテン中継。

 さらにありえないトンでも山田P演出。ということで、かの有名な杉村尚美「サンセットメモリー」坊さん編と山本譲二「みちのく一人旅」ふんどし編。
 杉村のVの後、「これってつまり、たいしたこたねー歌手をどう見せるかってことだよな?」との遠藤Dのフリーダムな暴言に、山田P曰く「女の情念は、宗教にも自然現象にも打ち勝つという意味」って。
 山本譲二のふんどしも著書によると、男の美学→三島由紀夫→ふんどしなんだそうで。ネタに困り果てるととんでもないこと思いつくよね、ヒトって。
 無論、こういったトンでも企画も、歌手がそれにノッてこそのもの、杉村さんも企画に合わせてこの回は着物を来て出演してくれたり、と、歌手の側からのアイデアもたくさん出てきた。歌手も含めて全員一丸となって作っていた番組だったと。もちろん中には企画意図が伝わらず、アリス「チャンピオン」の回、谷村新司、デスマスクのセットに納得いかず「僕、帰ります」なんてトラブルもあったのだとか。

「演出=メッセージ」である、と。
 視聴者になにを伝えるか。それは作り手自身が面白いとおもうもの。それこそが、本当にお客さんが見たいものであるはずだ。そう思いながらベストテンという番組を作っていた。
 翻って、今のテレビはそれをやっていないように感じる。今のテレビ番組のディレクターは、タレントのキャスティングをして一仕事終わるという印象で、タレントに対してモノを言おうとしない。
 確かに、と吉川アナ。「最近も、時々バラエティーの仕事入ったりすることもありますけれども今は『テキトーでお願いします』とよくいわれます」
 これをやりたいんだという熱意、作り手が発信する力がベストテンという番組を大きくしていったのではなかろうか。と遠藤Dと山田Pの言葉。ここで会場拍手。
 ちなみに。「番組が終わったのはなぜだったのでしょうか?」との吉川アナの質問に遠藤D「スター性のない歌手が出てきたから」とこれまたど真ん中ストレートな回答、いやー、この人なんか好きだわ。

 最後に黒柳徹子からの「みんなで命がけで作った番組でした」との手紙が読み上げられ、質疑応答。ここで、番組の81年からの完全データを残しているという主婦の方があらわれ、場内「すげー」といった感じでどよめく。子供二人と一緒になって記録していたのだとか。まさにお茶の間があった時代の、視聴者も出演者も裏方も――みんなが愛するテレビ番組だったのだな、「ザ・ベストテン」は、と、しみじみ。
 なぜ今のテレビ番組がその力を失ってしまったのか、それには様々な理由があるのだろうけれども、確かにこの番組は時代の金字塔だったのだな、と、再確認してこのレポートもおしまい。

2012.04.16
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