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書上奈朋子 『Baroque』

愛と美と罪の迷宮巡り

(2002.11.07/PCCY-01618/ポニーキャニオン)

1.della colpa mia 2.Bread and Wine 3.Staff of Comfort 4.Corcovado 5.Friction 6.fantasma che vaga 7.My Perfect Function 8.CIRCOLAR 9.Flower and Ice 10.Color is the Sky (Remix) 11.beauty


こうして様々な作品のことをぐだぐだくっちゃべっている私なのだが、本当にどうしようもなくすばらしい作品に出会ったその瞬間は、ただ、ひたすら黙って聞き、読み、見ているだけだ。
こんな私でも、その瞬間は、言葉をなくし、静かに頭を垂れ、ただ涙を流すだけなのである。

もちろんそれだけでは自分というキャラの沽券にかかわるので、じっくり堪能した後は、こうしてだらだらと書いたり、人に話したりするのだが、本当のところを言うと、いくら言葉を重ねても追いつかないな、と、心の底では思っている。
ただ、「これ、いいよ」というだけでは心許なさ過ぎるのでこうして余計なことを言っているだけに過ぎない。
「いいよ」と奨めて「そうだね」と相手が応える。
本当はそれだけで充分だと思う。
究極のところそれしかないものを、手間暇かけて理屈で希釈して、はいご立派な文章でございと澄まして座っているのが私の文章だ。
所詮その程度でしかない。
だから、もし私の文章を読んでなにか感じるところがあったというのなら、是非とも取り上げた作品を見て聴いて読んでいただきたい。

今回も、そうした百万の言葉よりもひとまず聞いていただきたい、そう言わずにいられない傑作である。

――それに今回取り上げるアルバムに関しては歌詞カード他に大伴良則氏の書上本人のインタビューも交えた各曲の解説と総論が書かれたものがリーフレットとして封入されている。
それに、なによりそのテキストの一部はネット上にも落ちているのだから、客観的なものなら私がなにか書くよりもそちらを読んでいただいたほうが手っ取り早い。
ちなみに大伴氏の解説はここで見られる。
なので、そういった客観的なものよりも個人的な感想をメインに今回は書いていきたい。



エキセントリック・オペラは奇蹟のユニットであった。
七色の声を持つボーカルの天才、相良奈美とプログラミングと作曲の天才、書上奈朋子による新世紀のクラッシック、それがエキセントリック・オペラの音楽であったが彼女らは歴史的役割を全うすることなく、2001年のアルバム「ヨロコビ」を最後に活動を休止する。

そして、ユニットが解体され、二人がそれぞれの路を歩み出したところで、ちょうど書上奈朋子のソロアルバムが届けられた。
書上奈朋子「Baroque」
これは愛の物語である。
そしてその「愛」は「美」と「罪」という2つの言葉に細い糸で繋がっている。

まず一曲目、「della colpa mia」
悲劇的なまでに美しいストリングスの向こうから切れ切れに聞こえるエモーショナルな伊太利語のボーカル――それは書上本人のモノである。
――ちなみにいっておくが、詞はEccentric Operaの時と同様、日本語以外の様々な言語によるもの――今回は伊語、英語、仏語などである。

夜空の無数の星の輝き  透き通る木々の緑
すべての美に 私の罪の片鱗が散らばっている
あなたが美を感じるまで 私の罪は消えない
すべての美は 私の罪
冒頭からただごとのなさが漂う。
この歌のテーマは贖罪だろう。
続いてこう歌われている。
消えない心の傷は 償うという漠然とした無償の行為にしかならない
漠然とした無償の行為を繰り返すしか
…………
あなたの美しい心が戻るためならば私はなんでもしよう
なにも惜しいものなんてもうない

続いて「Bread and Wine」はSM的な愛を歌う。
あなたの血をワインと思って飲んでやるわ
あなたはそのワインを私の貴い血と思って飲みなさい
とサディスティックな女王気取りである。が、
「いい加減にひれ伏しなさい いい加減に屈服しなさい」
この言葉が繰り返されることによって、それが悲痛なまでの愛の告白へ意味を変える。
そして、愛の支配者であるはずのサディストが愛を乞うマゾヒストへと劇的に変換する。
SMという愛の形の本質をついた歌である。
奇妙に捩れたエスニック調テクノに聖歌隊的コーラスが絡むところなども、背徳的な匂いを濃密に感じさせてすばらしい。

「Staff of confort」は年老いた魔女の妄執の歌だ。
杖に全てを捧げ、ゆえに杖から全てを得てきた、老魔女の矜持と狂気がそこには、ある。

杖を土に立てれば 淋しくないの
杖を土に立てれば 何もいらないの
ただそうするだけで
……
全てから裏切られても支えてくれた大切な杖
これを守るためにいろいろなものを犠牲にしたわ
ああ この痺れ この麻痺
駆け巡る魔力 体中
全てを失っても 全てを敵に回しても 決してこれだけは誰にも渡さない

超スローなテンポは足元のおぼつかない老女の歩みの速度そのものであるし、弦とハープの美しさはまるで末期の目に映る舞い散る花びらのように無残なまでに美しい。
今アルバム中、筆者の最も愛する作品でもある。

「fantasma che vaga」
直訳すると、「さまよえる亡霊」である。
この歌は心中の道行の歌だ。
死に場所をみつけた二人が廃墟で汗まみれでもつれ合っている。
これもまたメランコリックで、哀しい。

こんなところまで来てしまったのね
こんなところに辿りつくはずじゃなかったじゃない
周りを見渡してよ ここは墓場のようじゃない

ちなみにサビは「トルコ行進曲」からのイタダキだが言われるまでまったく気づかない。
これが書上の観自在力。

「Circolar」
アンサンブルプラネタのサポートによる多声モノ。
キリンビールのCF曲にもなったパッヘルベルのカノンの書上バージョンで今作では一番ポップかも。

どうして花は美しいの どうして夕日に涙が出てしまうの
私は本当はなにも知らないのに 感じているわ
すべては仕組まれているのね 「感じる」ということは
私の心に関係なくね
全てを任せて「感じる」ことしか 選択の余地はないのね
そうすれば恍惚の「無」になれるのね

これまた歌詞は意味深である。

そしてクライマックスは「Flower and Ice」。
書上最大の必殺技、ポリフォニー全開。声があたりから涌き出てくる。
天から地から花から鳥から泉から。
そして一面声の花びらが舞う。
まさしく声の大伽藍、天上の音楽。
音の建築家=書上奈朋子の本領発揮である。これこそが、書上奈朋子なのだよ。
書上の巨大建築物のような重厚なサウンドがもっとも楽しめる作品。

詞のテーマはSF的。
氷づめされた花が自らを生きるために、――みなと同じように腐敗し、土に帰るために、自らの官能の熱で氷を溶かす、という歌。

花が一番美しい時だった その氷に閉じ込められたのは
それは幸せ? 不幸せ? そこにいれば永遠だもの
全てから遮断された永遠に輝く人生
みんな普通に咲いて 普通に実を結んで ただ普通に 土に帰るの
何がみんなと違ったのかしら 教えてあげてよ その理由をその花に

そして最後に善問答のような「beauty」でアルバムは終わる。

あなたの美はあなたの中に 私の美は私の中に
私はあなたの美の中に あなたは私の美の中に

ふわふわとして夢心地のバックトラックにこの言葉が繰りかえされる。


と、最後の曲で、はじめて気づくのだ。
このアルバムのタイトル「バロック」の意味を。

愛と美、愛と罪、その二つの言葉をつなぐ細い糸となるキーワードがまさしく「バロック」なのである、と。
ここに描かれている愛は、全て歪んだ愛、過剰な愛たちである。
そしてその歪み、過剰さゆえにそれは愛を美や罪と名づけられるものへと変質するのである。
「バロック」的な愛はたえずそれを美しくも罪深いものに変えるのだ。
――――ちなみに、ここでいう「バロック」とは、語源である「歪んだ真珠」から、「歪み」、乃至その劇的かつ装飾過多なバロック様式建築などから「過剰性」という意味で使っている。

そしてこの愛の形は彼女自らが作曲家として自覚している「アンコンシャス・ビューティー」「アンナチュラルの美」「やりすぎの美学」といったものとつながる。
科学技術の粋を極め、徹底的に機能性と構造美を突き詰めたものにあるせつないまでの人工的な美しさを愛し、音楽でその人工美の再現を追求する彼女の創作姿勢。
それこそが「バロック」であり、そしてその背景には、人類の神々へ到る長い苦闘の歴史――神を目指し神を超越せんとする人類の「バロック」な歴史、があるといえなかろうか。

これこそが、書上奈朋子はテクノ―――ここで言う「テクノ」というのはいわゆる狭義的な「テクノミュージック」という意味でなく、広範囲にシンセなど、エロクトロニクスなど現代の科学技術を用いた全ての音楽という意味である、がついに掴んだ新世代のクラシックであり、新世代のミューズなのだという私の根拠なわけですよ。
って今回のテーマと関係ないこといっとるな。


ちなみに初の本人名義のリーダーアルバムでボーカル披露となったがこの時点でボーカルが完成の域であること。
―――もちろん、相良奈美の驚異的かつテクニカルなボーカルと比べると落ちるがウィスパリング・ボーカルとしては充分出来ている。「Staff of confort」「della colpa mia」にみられるように、このボーカル情感の込め方が尋常でない、まさしくエモーショナルで劇的でバロック。

また、このアルバムではアレンジやプログラムはもとより、レコーディング、エンジニアリング、ミキシングなど全てにおいての作業を書上本人が一人でこなし、音の建築家として更に孤高の高みに登ったということ。
―――レコーディングにかかわっている他者はなんとコーラスのアンサンプル・プラネタとストリングスのみである――これだって打ちこみ、多重録音で結構なんとかなることはエキオペ時代の彼女の仕事っぷりをしっているならわかるっしょ。

と、この2点は書上奈朋子というアーティストにおいて今回のアルバムで看過できない点であるのでついで記す。


偉大なまでの追記

書き上げてから、なんかいい足りないことがあるなぁ、いってないことがあるなあ、と思っていたところ、不意に思い出したので長々と追記する。

書上奈朋子の打ちこみのこうした音楽手法をなんつーんだっけなぁ。
なんかこういったのを表現する言葉あったよなぁ、と思いつつ前回筆を置いたのだが、今、なんとなく小室哲哉の『Digitalian is eating Breakfast』と坂本龍一の『未来派野郎』を続けざまに聞いて思い出した。

DTMだ。
DTM=デスク・トップ・ミュージックの略で、語源だけでいえば「パソコンだけで音楽を作る」て意味。
でも、それはつまり「コンピュータを用いて1人ですべての楽器をコントロールして音楽を作り上げる」ことでもあるわけじゃないですか。
っつうことで、そのDTMってのは、音楽としては珍しく、小説や絵画のようにその創作活動は個人的営為に近いものであり、その用法を愛する作曲家というのは、マッドサイエンティスト的である。と私は思うのですね。
この用法を古くから愛する坂本龍一、山下達郎、小室哲哉などみんな偏執的な音楽オタクだし。

でもって、その創作方法はまさしく「人間とエレクトロニクスの共同作業」であって、人間による営為とエレクトロの営為の区別は難しく、―――エレクトロが作者をフォローする時もあれば、エレクトロに引きずられるように作者が新たな局面を引き出す時もある、その作品は出来がよいものであればあるほど溶け合ってその別は曖昧になるものです。
それがDTMというジャンルだと私は思うのです。

で、書上奈朋子。
彼女の音楽は、科学者の緻密な計算の上に作られた「絶世の美形レプリカント」のような佇まいである。
と、私は思います。
それは、科学の粋を極め、髪のひと房、指の先に到るまで徹底的に研究し尽くされた上で成立している、溜息がこぼれんばかりの完璧なつくりものの美女。です。
しかし、それは決してこの世のものでない美、彼女のいう「アンナチュラルの美」です。
ですが、この「美」こそDTMという音楽手段が求める「美」の形であり、ひいては人類が科学に求めた「美」である、と私は思うのです。
ということで、彼女の音楽は新世紀のクラッシックであり、テクノロジーが掴んだ究極の美である、と。

2003.11.15
追記 2003.11.30

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