美輪明宏とか、高英男とか、美川憲一とか、ピーターらのせいだと思うのだけれども。 どうにも「シャンソン」って、おかまっぽいっていうイメージありません? もちろん日本にも女性のシャンソニエがいるんだけれども、偉大なる越路吹雪にしても、淡谷のり子にしても、戸川昌子にしても、金子由香利にしても、コシミハルにしても、 歌の表情は女性性が過剰でむんむんで、化粧がぶあつく、ドラァグクイーンのようで、女性なのになぜか妙にそれは「おかま的」。 しかも、普通の歌手でも、シャンソン歌わせると、なぜかそっち方向のベクトルに向くんだよね。今までそっちでなかった人までもさ。 ちあきなおみのシャンソンもおかまっぽかったしさ。マークパンサーすら、うっふんあっふん言ってたし。 シャンソンを歌っていて、でも表現のベクトルとして「おかま」の方向に行かないのって、加藤登紀子くらいなんじゃないのかなぁ。 (――シャンソンコンクール出身なのに、お登紀さんの場合、やっぱ三人も子供をころころ産んで、千葉の田舎で旦那と一緒に自然農法とかやっちゃうからなのか、頽廃とか倒錯の方向には踏み込まないのね。) てわけで、シャンソンってのは、こと日本において、おかまを臆面もなく表現するためにある音楽として定着しているんじゃないかな、とわたしは勝手に思いこんでいる。 で、ワイドショーの、なにかの余興でピーコがシャンソンを歌っているのをチラッと見たりとかして、あぁ、やっぱりそうなのね、とその想いを深くするわたしなのである。 ◆ ということで、今回は「ニューシャンソン」と副題のついた梓みちよのCBSソニー時代の二枚組ベスト「ゴールデン☆ベスト」。 79〜86年の梓の作品38曲が収録。 本場のシャンソンではなく、あくまでこの日本の地で、新たな解釈によって生まれた新たなシャンソン、そういう意味でのこのタイトルなのかな。 梓みちよの憧れである越路吹雪に一歩でも近づこうと努力したこの時期の彼女の、ベストアルバム。当時のヒットメイカー、大御所によって作られた"ニューシャンソン"が味わえる。 一枚目は79年アルバム 『 女が男を語るとき 』、80年アルバム 『 リラックス 』からが中心で、作曲は筒美京平、作詞は阿木燿子が大奮闘。 さらに、岩谷時子、五輪真弓が健闘。 「いまさら慎ましい女になれって 無理よ 贅沢が体の心まで染みついているわ (「淋しい兎を追いかけないで」)」 「例えば、あなたが男でも 例えばあなたが女でも それはどうでもいいことなの (「よろしかったら」)」 「15の頃には戻れないともう1度自分に言いきかせて あきらめなければ、忘れなければ (「女が愛を語るとき」)」 「快楽は盗むもの 罪のにおいの中で (「快楽泥棒」)」 「 わたしのルールは 恋から恋へ 愛する男を飲み尽くす (「コーランの恋人」)」 などなど、もう 「ザ・阿木燿子」としかいいようのない因業女?おかま?の妖しくも毒々しい呟きのオンパレード。エグイです。 特にすごいのが「ナラタージュ」という曲で、 「ざんげの値打ちもない」のような不幸な女の一代記の歌と思って聞いていると、 最後に「ところであなた今の今まで わたしを女だと思っていた?」。度肝を抜かれる。 ええーーーっ。これって、直球でおかまさんの歌だったの? そこで驚いて、もう一度聞くと、 なんで、この人の子供が欲しいと、愛する男と一緒に母のもとに訪ねたときに母が無言で泣いていたのか、とか、 主役を演じた学芸会に母が一度もやってこなかったのか、 とか、母の口紅を盗んで化粧した姿をみせて「ママとわたしと どっちがきれい」に何故を母が頬をつねって叱ったのか、とか、 歌詞に散りばめられたさまざまなエピソードの、そのほんとうの意味がわかってくる。 この歌は「夜のヒットスタジオ」のマンスリー企画でワインをこぼしながら歌ったそうだけれども、ぜひもう1度フルで見てみたいよなぁ。 メインをはっている筒美京平の曲も、郷ひろみや岩崎宏美で筒美京平が行っていた作業のひとつのバリエーションとして、楽しめる。 ディスコ〜フュージョン系の70's 筒美歌謡の世界。 ただこのサウンドで「シャンソン」というくくりは、ちょっと無理だな。 業の深い、情念を歌った、けれども演歌ではない、都会的で洗練されたアダルトオリエンテッドなポップスという感じ。 つまりは新宿二丁目のカラオケナイズドな歌謡、ってぶっちゃけ過ぎな言いかた? ◆ 二枚目は安井かずみ・加藤和彦コンビによる82年『 夜会服で 』、84年『 耳飾り 』、「リリー・マルレーン」やシルビー・バルタンのカバーなどを収録したわりとスタンダードなシャンソンテイストの81年作品『 いま、親友 』、かしぶち哲郎アレンジによる86年のカバーアルバム『 黄昏のモンテカルロ 』からが中心。 一枚目は、歌詞はシャンソンしていたものの、楽曲やアレンジがそれと齟齬をきたしていたり、あるは結構ズブの70年代歌謡曲だったり、という印象のものが目立ったけれども、 二枚目はアレンジとか、楽曲で「ニューシャンソン」にアプローチしている感じかな。 加藤和彦人脈のニューウェーブでヨーロピアンなアレンジ。わたし、こういうの大好物です。 そのかわり、竜真知子や安井かずみの歌詞は結構フツーです。 「稼いで 貢いで 捨てられ」の不幸な女の畳み掛けの「耳飾り」(安井かずみ 作詞)は、うわっ、というほどシャンソンっぽいけれどもね。 安井かずみ・加藤和彦コンビ作品は、これはかいつまんでいえば、中山ラビの「甘い薬口に含んで」とか「SUKI」の、あのライン。 ヨーロピアンで大人の女、っていう。阿木作品と比べると情念低めで、しっとりしております。 プロデュースも同じ立川直樹だし、中山ラビの二作と梓の二作は姉妹的作品集といっていいかも。 『 黄昏のモンテカルロ 』はこれはタンゴのアルバムだったのかな。 かしぶちのタンゴアレンジが、これ、結構、いいぞ。 86年年末発売だから、「タンゴ・アルゼンチーノ」の日本上演をはじめ、中森明菜の『TANGO NOIR』など、タンゴブームのまっただなかのリリースってことになるだろうけれども、これは、いい。 酔わせる。 このベストに、アルバム全11曲中七曲も収録されているけれども、きちっとアルバム単位で聞きたい。 「黄昏に踊って」「関係 〜夜のタンゴ〜」もいいけれども、なにより井上陽水の「ジェラシー」のタンゴバージョンは白眉。 ほか、堂々とした歌いっぷりがいい「リリー・マルレーン」(――原詩の世界を再現して、戦地に赴く兵士の哀切をきちんと表現している片桐和子の日本語詞もいい)、 久石譲編曲「いらっしゃい」や、国吉良一編曲の「サファイア色の午後」なんかはピコピコのテクノアレンジがおもしろい。 二枚目は、本格派が過ぎて渋い世界に入ってしまっている感が強いけれども、わたしはこっちの方が好きだな。 ◆ 梓みちよの歌い方は、あるいは梓みちよという歌手は、 倒錯した雰囲気はあるんだけれども、そこにあるのは女性器からこぼれる経血のような、あるいは裂肛から溢れる血のような、ねっとりと糸を引く情念というのとはちょっと違っていて、 こざっぱりとしていて清潔というか、まあ、ざっくりいうならば、レズの男役っぽいというか、そんな印象。 って、またまたぶっちゃけすぎな表現か、これ。 これ以上行くとくどい、というギリギリのところできちんと引き返している感じがする。 自己満足とエンターテインの境界ギリギリで、エンターテイメントしている。 歌いまわしも堂に入っていて、 大人の、しかもあまり陽のあたる道を歩いてこなかった大人の、矜持と余裕を感じる。 ネオンのけばけばしい、酒とタバコと汗とゲロの匂いのする饐えた裏路地に、こういう男か女かよくわからない、 けれどもやたら肩からうなじのあたりがきびきびとした、水際立ってカッコいい人がいるとしたら、それは素敵かもね。 そう思える作品。一聴の価値、ありです。こういうポップスが、今の世のなかには、ないものね。 |