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浜崎あゆみ「inspire」

空虚なスローガン


(2004.07.28/AVCD-30621/エイベックス)


久々のシングル。ある意味王道だなぁ。「ザ・エイベックス」というか、確実に当てているなぁ、と感じる。
が、それは誉め言葉ではない。

エイベックス的なほどほどの刺激、ほどほどの新しさ、ほどほどの安定、つまりは「ほどほどの退屈さ」に横溢された作品だなぁ、ということである。
つねに70点狙い、って感じ。満点取る気などさらさらないわけよ。マーケティングであらかじめターゲットとなる層を想定し、そこに答えをあてはめるような作品をこなしで作って、で、実際その範囲で収まってしまう作品なのである。

くだけたいい方すると、浜崎のファンは喜ぶだろうな、カラオケでもそこそこ歌う人もいるだろうな、CDもまぁ、それなりに捌けるだろうな、でもそれだけの作品ってこと。
ま、これは彼女の作品だけの話ではない。「退屈さ」と「マーケティング」が背中あわせにはりついているその姿勢はエイベックスの本質ともいえるし、今の商業芸能/芸術の全般に薄く広がっているともいえる。だから、それのみでことさら彼女を糾弾する事はひとまず今回はしない。
ここで私がいいたいのは、その退屈さの向こうにある、今の浜崎あゆみの鼻持ちのならなさって一体なんなんだろうね、ということである。

そこそこな作品ゆえに彼女のキャラクターの空虚さとその空虚さを誤魔化すかのような厚塗りの虚飾が妙に明確に見えてしまっているように私には見えて仕方ない。


「人はひとりじゃ生きれない」「愛だとか夢だとかを口にする事はカッコ悪い事なんかじゃない」

確かにその通りだろう。御説ごもっともだ。
しかし、このような誰も否定できないスローガンじみた「正しい言葉」は一方で胡散臭さと空虚さが濃厚に漂っているのも、また事実だ。
彼女の正論には実体がない。なにを根拠にしているものなのか。

その「正論」を踏まえて彼女はかように聴衆を煽動する。

「もう迷う必要なんてない」「引き返す事は出来ない」「壁なんて壊してしまえばいい」

これもまた実体はない。どこへ、何のために向かうためのスローガンなのか。わたしにはそれがまったく見えない。

否定できないうわついた正論を持ち出し、聞き手を頷かせておいて後、今度はこれまた実体のない正体不明のポジティビティーへと誘導する。
根拠の浅薄な実体のない「正論」の怪しさ、正体不明のポジティビティー、それは自己啓発セミナー的カルト宗教的な論理の怪しさと同質といっていいだろう。
つまり今の彼女がやっていることは新興宗教の教祖じみたいかがわしいリスナーの誘導とほぼ同義なわけである。
根拠のない自分を自信満々に飾りつけ「とにかく私についてきな」といわんばかりの姿勢で、愛とか夢とか希望とか未来とかやたら抽象的で耳ざわりのいい言葉を並べて、リスナーをハーメルンの笛吹きのように煽動しているのが今の彼女、 つまり自分ばかりの無間地獄と空虚なプロパガンダ稼業、これが今の浜崎あゆみである。

そのプロパガンダの先にあるのが一私企業内のつまらぬ闘争だというのならこれほどつまらないことはない。
夏の暑さに耐えきれずおもわず自らのあなぐらを這い出るザリガニや油虫のようなエイベックスのお家騒動に、 浜崎あゆみが「これは戦争だ」と発言して関与するというこの構図。それは彼女の歌の虚ろさと同じで、ばかばかしい以外にいう言葉はない。

幸福な豚は導かれた先に脂ぎった顔で札束を数えているオヤジと、高慢なひとりの整形美人を見る。それは虚しくもいやしい絶望の牢獄である。これが今のポップスであるというのなら、私はその場で踵をかえすだろう。
それでも幸福な豚でありたいというファンはいつまでも彼女とそのスタッフに搾取され続ければいい。そして彼女はその肥大した自意識を撒き散らせばいい。
しかし、今の彼女は以前の彼女を裏切っているのではないか。
私には今の彼女が「いつかこの歌をひとりで 聞く日来ても忘れないで」(「P.S2」)と自らがバブルガムであることを認めていた彼女と同じには見えない。

浜崎あゆみという存在を近いうちにもっと明確なテキストにおいて総論で徹底追及したいが、ひとまず今日はこれまで。


2004.08.12
加筆 2004.11.20
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