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明菜よもやま話 その9

もうひとつのStock


80年代の中森明菜のシングル選考は実に苛烈を極めていたという。 有名無名関わらず様々な人材に発注をし、集まった数多くの様々な候補曲の中からシングルとして1曲を選びリリースしていたという。
その選に漏れた中からある曲はアルバムの中の1曲へ、またはある曲はシングルのB面へ、という形で発表されたものも多いのだそうだ。 さらにそうした楽曲の救済にその名も『Stock』というアルバムを88年に出した事もある。これはシングル候補オチ楽曲のなかでもとりわけロック色の強いものを集めたアルバムで、帯には「アナザー・シングルス」と銘打たれていた。
しかし、このような形で世に出ることなく、そのまま埋もれてしまったものも多いのではなかろうか。

諸事情により中森明菜の楽曲としてリリースすることがあたわなかった楽曲で、後に他の歌手が歌ったものもたくさんある。「Stock」リリース時、そんな明菜のコメントを聞いた事がある。
今回はそうした事情で明菜の歌わなかった私の知っている三つの楽曲の紹介である。


 ・YMO「過激な淑女」  (83.07.27)

明菜のボツ曲で最も有名なのがこれであろう。細野晴臣作曲で、83年秋の明菜のシングルとして用意されていたものだが、明菜サイドからの書き直しの要求をうけ、この曲はボツとなった。その代わりにできたのが「禁区」である。
「過激な淑女」はそのままYMO名義で「君に胸キュン」のおちゃらけテクノ歌謡路線第2弾としてリリース(―――タキシードでフリつきで歌っていたような気がするがおぼろげでよく覚えていない)したが、マイナー気味で歌詞がシュールお耽美路線だったのがいけなかったのか、大ヒットとはならなかった。
それにしても、どうも明菜はテクノポップとの相性が悪いようで、当の「禁区」も構成でうまく嵌めこむ場所がない、とあまりコンサートでも歌わない。

明菜に提出した詞がこの松本隆の「過激な淑女」の詞であるかどうかわからないが、この詞とこのトラックでこのままシングルとして明菜が歌ったとしたら中森明菜、最大の問題作の一つとなったことであろうことは間違いない。 (――――もちろん、当時同じ事務所であったスターボーの「ハートブレーク太陽族」のような撃沈覚悟の怪作になったという可能性の方が強い)。
ただ、これ、明菜にもちょっと歌ってみてほしいよなぁ、とわたしは思ったりもする。明菜の口から「時代は過激な淑女」って言葉が聞きたいなぁ、と。 まあ、この時の明菜は「過激」でも「淑女」でもないんだけれども、後の「Desire」以降のセルフプロデュースをするようになった明菜はまさしく時代を手玉に取る「過激な淑女」であったわけだし。

ちなみにB面の「See-through」も明菜のボツ曲だったという噂もある。確かにこの3曲はよく似ている。


 ・中島みゆき「見返り美人」  (86.09.21)

これもファンの間では有名な1曲。
当時中島みゆきのメインアレンジャーの一人であった椎名和夫氏―――もちろん明菜の「DESIRE」のアレンジャーでもある、あたりの手引きによる企画だったのではなかろうか。 「DESIRE」の明菜のジャケット写真を見て「まるで見返り美人のよう」と中島が思ったであろうことは想像に難くない。 しかしこれは、中島みゆきが提供するも実現には至らなかった。明菜サイドが歌詞の差替えを要求したのでボツになった、であるとか、中島サイドが競作でのリリースを要求したが明菜サイドが拒否したので流れた、などと様々な噂がある。

86年、中島みゆきは親友の甲斐よしひろをプロデューサーに迎え、ニューヨークはパワーステーションで『36.5℃』なる大勝負アルバムを制作していた。フォークソングの中島みゆきのイメージを払拭し、新生中島サウンドをリスナーにイメージづけるための今までにないアルバムを、ということで プロモーションも今までにないほどしっかりと行なったし(確か全国で「中島みゆき展」なるものをやったと記憶している)、いつもであればアルバムとシングルは別物で行なっていた中島みゆきが、このアルバムからは3枚もシングルに切ることになったし、更にアルバムリリース直前のシングル 「見返り美人」ではテレビに出ない中島みゆきが初のプロモーションビデオを製作することになった。
こういった事情下で中森明菜サイドからの楽曲提供の依頼が来たわけである。
のるかそるかの勝負時に出せばヒット確約のトップアイドルとの競作を行い、シナジーで更なる自身のシングルとアルバムのヒットを狙う―――こういった腹づもりが中島サイドにあったであろうことは想像に難くないし、こうした向こう側の事情など関係ない中森サイドが書き直しを要求する(――――確かにこういってはなんだが「見返り美人」の詞はちょっと明菜のイメージとは違うし、萩田光雄の派手な歌謡ロックアレンジは明菜がこのまま歌ったら、時代を逆戻りするようでちょっといただけない)というのもこれまた想像できる範疇だ。

中島サイドとしては、既にできあがっている曲を書き直しては競作の意味がないし、明菜サイドあわせですべて書き直すなり、それにあわせてリリース時期をずらすようなことは『36.5℃』のプロジェクトがもうできあがっている以上できるわけがない。
中森サイドからすれば中島サイドの話などどうでもよく、大ヒットが射程範囲にはいるイメージにあったいい曲でなくてはだめなわけだから、このままではリリースできない。
―――ということでこの企画が流れたのでは、と中島ファンでもあり中森ファンでもある私は想像する。
リリースするとしたら「Fin」の時期であったろう。


 ・TM Network「Come on Let's dance」 (86.04.21)

TMネットワークの初期の代表曲でTMファンの人気の高い楽曲であるが、実はあまり知られていないが、中森明菜への提供ボツ曲である。
小室哲哉は後に「中森明菜が歌う可能性もあった」と述懐してる。
まだグループとしてのTMネットワークのブレイク(――最初のシングルヒットは87年リリースの「Get Wild」)も、また小室哲哉の作曲家としてのブレイク(――最初のヒット曲は86年1月リリースの渡辺美里「My Revolution」)も以前の話である。
この時期彼は様々なディレクターにデモテープを届けてはボツを食らっていた時期だったという。 TM名義でのリリースが86年4月であるから、時期的にいって85年「ミ・アモーレ」〜86年「Desire」あたりの選考であがったものではなかろうか。

ひっきりなしの転調に細かい譜割、乱高下の激しいメロと典型的原始小室節であるが、これを当時の明菜が歌うとしたら「Babylon」や「Desire」の歌唱のように気合一発で一気にハードに歌いきるだろうな。
TMの音源を聞くとちょっと明菜には不向きかなという感じだが、後の「愛撫」での成功を鑑みると歌ってみたら案外よかった、という感じになりそうな気がしないでもない。
もしこれがシングルとしてリリースしていたら、もちろん当時の明菜の盤石のアーティストパワーでヒットしていただろうし、となるとTMネットワークもそして小室哲哉の歴史も変わっていただろう。そう思うと大変興味深い。



2004.10.03
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