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追想・89〜93年の明菜

カナリアが忘れた歌を取り戻すまで


 89年7月、恋人の家で明菜は自殺未遂を図り、わたしたちの前から突然消えた。
 歌謡界の女王の突然の不在、ゴシップマスコミは彼女の姿を求め、様々な噂が飛び交った。
 そして、89年12月31日深夜、明菜は半年近い沈黙を破り、マスコミの前に姿をあらわした。
 明菜は長い髪をばっさりと短く切り、恋人に対して「もうしわけない」と涙で崩れきった顔で釈明した。

 この記者会見がどういったものだったのか。何が目的だったのか。それは一視聴者であった私にはよくわからなかった。
 後に明菜の後見人の真似事をした女性がこの一幕を暴露した本を出した(――ちなみにその彼女はこの場にはいない)がそこに書かれていることが事実かどうかなどわからないし、だいたい暴露本を書くような品性の低い人のいうことを鵜呑みにして信じるほど私の品性は低くない。

 何故紅白歌合戦の裏でこんな惨めな姿を曝さなくてはならないのか、こんな晒し者のような会見、ない、これではいくらなんでも可哀相過ぎる。 ただ、そんな思いだけが、見ている私の心に募った。
 そして、その場で明菜が翌年春にシングルとアルバムをリリースして復帰することが告げられた。



 ともあれ、明菜はまた歌う。
 そのことだけがこの時の明菜ファンの私の唯一の希望だった。
 ――しかし、90年春になっても彼女の新曲はでなかった。彼女は大晦日の会見以降ふたたび雲隠れした。 結局彼女の復帰曲は7月まで待つことになる。


 「Dear Friend」。明菜の復帰曲である。
 「サザン・ウインド」以来の夏らしい明るく軽めのシャッフルナンバーであったが、鬱状態の女性が無理してテンパっている妙な明るさだけが残った。 威勢のいい「フゥーーー」や「FOR YOU!!」といった掛け声も、どこか虚しいものだった。

 楽曲自体はいい曲だった、――と今なら言える、ただ、何故この曲を復帰第1弾として持ってこなくてはならないのか、まったく理由がわからなかった。 カラオケ映えもしない楽曲、以前のようにコンセプチュアルな衣装もフリもない、そして似合わない日焼けとためらい傷を隠すかのような大きな腕輪……。

 ふたたび歌を歌う、では一体何を ? この曲には何も答えがなかった。復帰のご祝儀で大ヒットはしたが、ただそれだけであった。
 彼女はきっともう歌など歌いたくないのではないか。なんとはなしに、そんな気がした。
 その予感は当たった。



 90年秋に発売予定が立っていたアルバムがいつまでたっても発売の目途が立たない。 その代わりにシングル「水に挿した花」が突然リリースされた。
 徹底的に暗いワルツ、内省的で鬱状態のような歌詞に抑制が効き過ぎのアレンジ。「難破船」以上の救いようのない暗い歌だった。
 しかしこれが明菜の今の精神状況そのもののように私は感じた。 救いがないが、これを今表現する意味、というのは充分感じられた。

 が、この曲は明菜本人の実働のプロモーションは何もなかった。 リリース直後に歌番組に出演することもなかった。 その昔、あれだけ凝っていたジャケット写真も彼女が撮ったという陰鬱な黄昏の風景写真――しかもカレンダーの使いまわし、だった。

 ちょうどその頃「アッコにおまかせ」のトークコーナーのゲストで出演したのを私は強烈に覚えている。
 全体としてはそつない、言い換えればどうでもいいトークだったが、彼女は発売した写真集「MY LIFE」――芸能マスコミから逃れた約1年間の海外生活を追った写真集だが、内容はプリクラ写真とか写メールレベルの他愛のない写真をただ無駄に大量に載せただけの2冊分売で一万円というユーザー不在の写真集である、 とカレンダーの宣伝はしたものの、新曲については不自然なほど全く触れることがなかった。
 それでも「水を挿した花」もヒットした。チャート1位を飾り、30万枚以上売り上げた。

 こうして明菜は歌を歌うことも、歌について語ることすらなくなり、バラエティー番組のトークコーナーのゲストであるとか、「なるほど・ザ・ワールド」の解答者だとか、2時間の単発ドラマなどといった、何をしたいのかわからない、次に繋がらない詮無い仕事をポツリポツリとこなしていく。



 と、そんな情況に突然発売が決まったのが「二人静」だった。
 角川映画「天河伝説殺人事件」の主題歌として作曲者関口誠人の歌唱で一大プロモーションが組まれていたが、どういった経緯か知らないが突然明菜も歌い、競作となることが決まった。

 このリリースを知ることになったのは私はリリースの1週間前であった。嘘かホントかと発売日にレコードショップに向かうときちんと商品があって、普通こんなことで驚くことではないのだが、あ、デマじゃないんだと妙に感心した私であった。 ――それほどゴシップジャーナリズム発信の明菜のデマは多かったのよ。
 見るとジャケットは般若の面を手に持ち、以前を彷彿とさせるなかなかのもので、これはもしかしたら明菜、やる気出てきたのか、と私は期待をもった。
 音も復帰後の作品の中で一番以前のテイストを感じるものであったし、松本隆の詞も関口誠人の曲もちょいと演歌よりなテイストを残したポップスといった佇まいで明菜の今後の方向性も感じられた。

 実際歌番組にも彼女はふたたび出るようになる。「二人静」は通算10回弱はテレビ披露したと思う。 チャートでは1位を逃したものの、ロングヒットし、累計では「難破船」を超える数字をたたき出した。 ―――ちなみにディレクションは後の「歌姫」シリーズのプロデューサーである川原伸司氏であった。B面「忘れて……」の作曲も彼の手によるものである。

 これは、と思ったところに明菜の復帰コンサートが決まった。
 91年7月、幕張メッセ、スペシャルコンサート「夢」。
 散々迷った末、私はこのコンサートの二日目に足を運んだ。

 さすがにブランクを埋めることは出来ずに「短期間で衰えたな」と思わざるを得ないシーンが散見された。
 声が響かない。伸びない。
 だが、それは何より明菜自身が一番痛感し、悔しいと思っているのだろう。彼女の想いは舞台の上から痛いほど感じられた。 その悲愴なまでに懸命な彼女の姿に私は心を打たれた。

 そしてラスト「忘れて……」。
 花瓶の水を頭からかぶって出てきたというアンコール、最後の最後のナンバーである。
 明菜は歌詞を変え、わたしたちファンに「心配かけて 心から許してほしい」と歌った。 そして「忘れないで これからも見つめていて」と涙ながらに歌いかけた。

 私は天井桟敷の席で静かに感動した。
 いかにも物見高いライトユーザーといった隣の若いOL二人組も見ると静かに涙を流していた。

 大丈夫だよ、明菜。あなたは歌に宿命があるんだ、だから、歌えばいつしか道がみえるはずだよ、 とその時私は、思った。
 が、彼女はまた歌うことを中途挫折する。
 それから――。次のコンサートも、次の新曲も、その影すらも杳として届いてこなかった。



 いよいよもってドラマやバラエティー、雑誌のインタビューといった仕事が増えていった。
 しかもそれらの内容も歌を全部を捨ててトライするというものでなく「大スターの歌手、中森明菜」が今までにない新しい(かつ、安い)ことをしていますよ、程度のレベル―― あきらかに名声を食いつぶすような仕事ばかりであった。

 実家は大家族で、料理上手で、気立てのいい、子供の世話の大好きな庶民派の明菜。
 確かに全盛期から、毎週歌番組で完璧な仕事をしていた「表の明菜」の一方で、そういったプライベートの気さくな「裏の明菜」を見せるという作業はしていた。 例えばキャノンのファミリーコピアのCF――やぁ、とコピーに話しかける明菜、とか、明治チョコレートのCF、京都編とか、『BEST2』の裏ジャケットとか。
 しかし、それは表が光輝いているから輝くだけにすぎない、あくまで「裏」の魅力だ。
 「ザ・ベストテン」にランクインして歌前に「買い物について」「洗濯物の干し方について」熱く語るのはいいが、トーク番組でそんな話をしてもファンとしては興醒め、名声の食いつぶしとしか見えなかった。
 もちろん、ドラマも悪くはなかったが、明菜が演技の基本が出来ている、女優をしてもそこそこ食っていける、ということがわかったという収穫しかなかったし、なにしろ明菜頼みの企画なのだろう、脚本がなっていないものばかりだった。 ――この時期の明菜のドラマで私が好きなのは「悪女A・B」だけである。

 さすがにいらいらしだし、とにかくなんでもいいから歌えよーーー、と私が悪態をつきだしてもそんなファンの思いなどどうでもいい彼女は、
 「今井美樹ちゃんの歌が主題歌のドラマに出たい――」だとか言い出す始末。
 ラジオの特別番組でファンが明菜に「ライブしてください」という要望を言うも彼女は、
 「ライブは色々準備があって、会場とかは1年前から予約しないといけなくて、だからすぐにはできないの、ごめんね」
 などとみえみえの嘘をいった時にはさすがに、
 「おまえ、ツアー組んで全国津々浦々回れってるんじゃねぇー―んだからよぉ。あんたが一言ライブやりたいって言って動けば東名阪ぐらいどっかの小屋押えてなんとかなるはずだろぉー――無駄に期待させずに、歌いたくないって言えよ」
 と、半ギレ気味にラジオに当たったものだ。



 92年は連続ドラマ「素顔のままに」のみの年だった。
 歌は一曲もリリースされることはなかった。レギュラーのラジオ番組「フィフティ・オフ」もあったが、どうでもよかった。
 私は歌う明菜が好きなわけであって芸能人の明菜はどうでもいい。この頃はいらだつのも飽き、普通に他の歌手のファンに走っていた。――この時期に一番のめり込んだのが谷山浩子と中島みゆきだった。
 明菜の所属事務所とレコード会社が2重契約のトラブルを起こしたとか、そういったゴシップを小耳に挟んだりしたが、そんなものはどうでもいい、またまたファン置いてけぼりだな、と冷たく笑うしかなかった。

 今考えると、この時期の彼女は滅びの美学に溺れていたのかもしれない。
 自らの命を絶つことに失敗した彼女は、自らの存在を唐突に切り裂き、終わらせるのでなく、水を絶って草木を枯死させるように、ゆっくりと自らの存在を死の方向へ導くように無意識下に企んだのではないか。 漫然としたしかし確実に死へと向かうベクトルへ、と。
 食事を拒み痩せさらばえていく彼女の姿、肥大し世間へ頒布された「中森明菜」というパブリックイメージを潰すかのような仕事、その先にあるのは公的・私的両方の「中森明菜」の死である。
 自分の姿と自分の足跡を全て消したい。どうしようもない滅びの意志がそこに感じられた。



 このまま、彼女は枯れてしまうのだろうか。
 そう思ったところで段落が変わった。
 93年、MCAビクター(現ユニバーサル)への移籍、そして2年ぶりのシングル「Everlasting Love」の発売。 ただ、このシングルに関しては明菜利権に関する政治的な匂いが感じられるだけの凡作であった。
 しかし、4年ぶりとなるアルバム『UNBALANCE+BALANCE』でなにかが変わった。

 それはとにもかくにも川原伸司氏との出会いがなによりも大きい。
 明菜はこのアルバムリリース時、今まで避けていた音楽誌の取材にも快く受けた。 そしてそこで語られる内容は、非常に濃密なものであった。
 かいつまんでまとめると、今までの音楽制作手段が手詰まりであった、それが今回のディレクターの川原伸司氏のアドバイスや指導が刺激になり道が開けた、 また再び音楽に関してクリエイティブな関りを持つことが出来るようになったと思う、今は音楽に関する色んなアイディアがあってそれを早く実現したい、といった自らの今までとこれからを真摯に語ったものであった。
 「二人静」ではワンショットの雇われディレクターであった川原氏であったが、この時に彼女の音楽的な埋蔵量の莫大さに刮目した川原氏はこのアルバムのレコーディング時、明菜と様々なディスカッションをしたと言う。

 また、93年時点ではライブに関しては「あの頃のように歌って踊ることは出来ない」などと及び腰であったが、その恐れも少しずつ解消し、97年には全国ツアーを敢行した。
 以降はほぼ毎年ツアーとディナーショーを行い、「明菜が歌わない」という情況はなくなった。

 あの時、明菜が歌に抱いていた恐れや怯え、というものは今考えれば充分わかる。
 しかし、時と出会いが少しずつ彼女を解いていった。
 めでたしめでたし、というところでこの話は終わる。



 だから、わたしゃ、99年末のインディー・ジャパンやガウスとのトラブル――明菜の芸能界引退勧告騒動なんてのは、屁でもありませんでしたね。
 だって、明菜はあの時、それでも歌っていたから。
 レコード会社なくても全国ツアーをして、ネット通販でCD出して、と歌一本だったもん。
 余計な安いバラエティー仕事を増やしたりと視点がぶれることなく、ただ、黙々と歌っていたもん。
 その歌を捨てようとしたあの頃のほうがよっぽど怖いわ、と、今の私は思うのである。


2003.11.23


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